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番外編◆音楽家の世界のBOX 単発
【音楽家の世界のBOX】
――その人の"音"は、初めから何か、特別だった。
仕事で色んな家や、学校や、ホテルや施設を出入りするのにもすっかり慣れたけど、やっぱりあンま高級なトコは妙に緊張する。
「あ、ちわス。 調律に来ました、その……」
「ああ、山代さん。 どうも」
南北に長い和風ラグジュアリーホテルの裏口に回ると、煌びやかな表側とは打って変わって普通にシンプルな白い壁の従業員出入り口に着く。そして右手には飾り気のない警備員室。
「はい、こちらにお名前と入館時間を」
「えーっと……」
「9時半ですね」
なんだかんだで、このホテルの調律を担当してもう4年目だ。3ヶ月に一度のペースで依頼してもらってるから……単純計算で、12回目か。
「じゃあ今日も」
「そうですね、いつも通りまっすぐ行ってもらって」
入館証を受け取って首からぶら下げながら、工具の入った鞄を肩に掛け直した。
「BGMは切っておきます」
「ありがとうございます」
スーツ、コック服、柔らかい色合いをしたホテルの制服……外資系だから国籍もバラバラ、色んな格好の従業員たちが忙しく歩き回る廊下を、なんとなく肩身の狭い思いで歩いていく。階段で地下1階へ降りれば、目的地はもうすぐだ。
「……あ」
吹き抜けの大広間へ出る扉を開けようとすると、向こう側から取っ手が捻られて知った顔が現れた。
「おはよう、ございます」
少し見上げると、サラリと目元まで伸ばされた金髪が目に入る。スリーピースのスーツに身を包み、ワインレッドのハンカチーフを胸元に刺した背の高い男性……このホテルの専任ピアニスト、セオドール……テッドさん、だ。
「蓋、開けておいてくれたんですね」
「……」
ピアノは生き物だ。湿度や温度……そして、奏者によって、ガラリと音色を変える。だから、なるべく早めに蓋を開けて空間の湿度に慣らしておいてもらった方が、より安定した調律ができる。
「えーと、今回は梅雨ぶりなので、キーのタッチもしっかり見ます」
そう話しながら大広間へ出る。1階が入り口とカフェラウンジ、地下1階にはレストランがあって、更に下にはスパや宴会場がある。この空間は吹き抜けで繋がっていて、黒いグランドピアノが、その吹き抜けになっている階段の踊り場に鎮座しているワケだ。
蓋を開けて譜面立ても外しておいてくれたらしい。すぐ作業に入れて、すげえ助かる。礼を伝えるとスル、と頬に右手を添えられて、あまりにも自然に額にキスされた。
「……」
「……」
この人のこういう所が苦手だ。アメリカだかヨーロッパだか、どこ出身なのか知らねえけど……サラッとこんなことされて、まだ人の少ない朝のロビーとはいえ、公の場だし、俺はどう振る舞えばいいのかいつも分からない。顔が赤くなってる自覚があるから気恥ずかしくて俯いた。
「じゃあ、また休憩所ですよね。 終わったら呼びに行くンで」
消音用のフェルトを弦に挟み込みながらそう言って、なんとか仕事モードのスイッチを入れる。湿度は48%、なかなか理想的だ。
あの人の声を、俺は聞いたことがない。いや……誰も聞いたことがないらしい。話せないのか、話さないのか、それは知らない。ただ、彼の仕事は"弾くこと"だ。だから、黙ってここへ来て、黙って弾いて、黙って帰っていく。
「うわ、これ……」
問題なくひと通りの調律を終えて、横の壁に立てかけられてる鍵盤カバーをふと見ると、そのジョイント部分の木が欠けているのが分かった。このカバーはネジ止めされてなくて、真上に持ち上げると簡単に外れるタイプだ。乱暴なゲストがイタズラに触って、外れたカバーを慌てて戻そうとして……ってトコだろう。簡単に想像がつく。
「酷いな」
どんな高級ホテルでも、置いてある楽器に興味本位で雑に触れる下品な人はいる。俺は思わず嫌悪感を隠しきれず、クロスで本体全体を拭きながら小さく呟いた。
このピアノはテッドさんの私物らしい。4年前、支配人がどこからかあの人をスカウトしてきて、このホテルに生演奏BGMが導入されることになった。その時に、彼は自身の相棒を持ち込んだんだとか。
「……だいぶ良い音に仕上がってきたな」
まだ若いピアノだ。だから初めてここへ来た時は無性に心が躍った。傷ひとつなくて、音はまだ荒々しさが残り、これから俺が……いや、俺とテッドさんで、育てていくことになるんだって。プロのピアニストが使うピアノの成長にゼロから関われるなんて、こんな機会、滅多にない。
「あ、やべ」
正午から演奏が始まるのに、結構ギリギリまで調整に没頭しちまってた。
裏には喫煙所や更衣室があって、テッドさんはいつも一番奥の休憩所でソファに座って待ってる。さっき額にキスされた感触がまだリアルに残ってて、むず痒い気持ちで口を開く。
「あの、テッドさん、お待たせしました」
確認お願いしますって声をかけるとチラリと視線が合って、彼が立ち上がった。
「ギリになってすんません、つい……」
スタスタとピアノの場所へ向かって歩いていく背中を小走りで追いかけながら話しかけると、不意に立ち止まるから勢いよくぶつかっちまった。
「うわ、っぷ!」
だから謝ろうとしたのに、包み込まれて頭が混乱した。あれ?ハグされてる?廊下のど真ん中で?
「あ、あの、な、なに……」
通り過ぎていく従業員たちがチラチラとこっちを見てるけど、忙しいみたいで誰も何も言わない。テッドさんはここの従業員じゃなくて、外部の演奏家として個人的に契約を交わしてる立場らしいから、いわばホテル的には部外者だ。
「……」
なんなんだ、この状況。完全アウェイな場所で、そこの従業員たちに見られながら、出入りの部外者同士がハグしてる。体を離されてもまだ理解不能で呆然としてる俺を放置して、彼はまた歩いてった。
あまりにも唐突で意味不明だったものの、仕事中だ。工具だって出しっぱなしだし、最後にもう一度鍵盤の調整をしたい。逃げ出すワケにはいかない。
「あの……どうスか」
正直、心臓がバクバクで耳が正常に働いてない。それでも、試し弾きしてる音になんとか集中する。ああ、マジで良い音になった。まろやかだけど、ツヤがあって、体重移動や指先の動きをそのまま反映してる、素直な音だ。
「……」
彼はこの場所で毎日3時間、自由気ままに、即興演奏をする。クラシックもJAZZも弾かない。流行りの曲でもない、ケルトでも、シャンソンでもない。拍もなく、調性もない。ただ"彼"の音を繋ぐだけの、自由即興。あえてジャンル名をつけるとすれば、コンテンポラリー、アンビエント、オルタナティブ……ミニマル。でもそんな棲み分けなんて、どうでもいい。
「やっぱ、キレイだ」
勝手にそんな言葉が口からこぼれ出て、自分の調律したピアノの音に酔いしれるなんて、と恥ずかしくなる。いや、でも、違うんだ。俺が弾いてもこうはならない。この人が触れると、たちまち輝く。ただゆっくりと、単音で|スケール《ドレミファソラシド》を弾くだけでも"音楽"になる。
「頭ン中、覗いてみてぇ……」
初めて聞いた時から思ってた。この人のピアノはあまりにも"雄弁"で、彼が口を利かないのは、まるでこの為のようにすら感じる。言葉で紡がない思いを全て、指先から音に変えてるんじゃないかって。それが、ピアノが"育つ"ほどに、より鮮明になってきてて……。
――……。
最終調整前の試し弾きだってのに、気が付いたら思わず聴き入って、意識がどっか遠くにいっちまってた。名前を呼ばれたような気がしてハッと顔を上げる。
「え? 今、なんか」
「……」
何か、"言い"ました?まさか。そう思いながら尋ねると、テッドさんが手を止めた。音の余韻が消えるまで体重をピアノに残したまま。
「あ、あの、タッチの調整がまだで」
そう伝えると素直に立ち上がって俺に委ねてくれる。じっと見つめられて変な汗をかきながら、鍵盤を手前に引き出して、ひとつひとつ、動きの悪い箇所が無いか確かめていった。
数分後、納得のいく仕上がりになったから鍵盤を弦の下に潜り込ませる。留め具も全部しっかり付け直して、譜面立てと鍵盤カバーも元通りにすると、ようやく"よく見る"グランドピアノの姿になった。
「よし。 じゃあ、これで最終確認、お願いします」
そう声をかけると、テッドさんは一度だけじっと俺を見つめてからイスに座った。
「……え」
そうして完成したピアノで彼が音を鳴らした瞬間、身体中に鳥肌が立った。な、なんだよこれ。体を包む"音"が……全部、まるで愛の囁きみたいで。
「あ、ちょっ……」
何がって上手く言えないけど、"耐えきれない"。ほとんど無意識に、俺はその腕を掴んでた。
「……」
「……あ……」
最終確認、してもらわねえと……なのに。イスに座ったまま俺を見つめてる青緑色の瞳に吸い寄せられて、キスをした。
ここは吹き抜けになってるから、上の階からそれを目撃した人の会話が遠くに聞こえる。「ねえあそこ、キスしてるよ」「ピアニストさん?」まあ、そんな感じだ。
「っふ……、ん」
さすがにまずいと思ってるのに、腰を抱き寄せて更にキスを深くしてくる彼に、逆らえない。俺はもう、求愛ソングに"やられ"ちまった鳥みたいな気分で、何ひとつ抵抗すらできず……人前で、仕事現場だってのに。
「はぁっ……テッド……好きだ、"俺も"」
何言ってンだろ、俺……変だよな。でも目の前の宝石みたいな目が嬉しそうに煌めくから、他のことなんてもうどうだっていいと思ったんだ。
【音楽家の世界のBOX 完】
▼後日談へつづく
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