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番外編◆音楽家の世界のBOX 後日談
【音楽家の世界のBOX 後日談】
音楽家の朝は、遅い。
「だからって寝すぎだろ! テッド!」
休みだからって昼を過ぎてもいつまでもベッドに横たわってる恋人から掛け布団を奪いとる。それでも気にせずスヤスヤ寝てるから、とりあえず布団は天日干ししてやることにした。初秋晴れとでも言うべきか、暑さと湿気がマシになって、気持ちいい天気だから。
「ったく……」
演奏家の仕事は夜が多い。だから昼夜逆転するのは仕方ねえけど、テッドの仕事は昼間だ。とはいえ正午から3時間の演奏だから、休憩を含めて、12時から午後4時が勤務時間。だから毎日10時には起きてンだよ。
「あんま休みの日にリズム変えると、しんどいのはお前だぞ」
カーテンを開けながらメシ食わないか?と聞いてみるとようやく目を開く。
「ほら、歯磨いてこい。 着替えて顔洗って、メシ食ったらちょっと出かけようぜ。 コーヒーとドーナツでもテイクアウトして、川添いのベンチでゆっくりしよう」
いつものデートコースを提案すると気が乗ってきたのか、むくりと起き上がってくれたから、寝癖のついてる頭を軽く撫でた。
昨日はテッドが演奏を担当してるホテルの|従業員《エンプロイヤー》|感謝祭《パーティー》だったから、珍しくピアノの周りに人が多かった。かくいう俺もテッドのパートナーとして参加していいと支配人から直々に招待してもらったので、のこのこ行ってきたうちの一人だ。
従業員って正社員の話かと思えば、契約社員や外部委託業者、警備員やメンテナンスチーム、更にその家族も参加可能ってことで、地下2階にある宴会場は大いに盛り上がった。
彼らは勤務時間を終えるとホテルへやってきた妻や夫と人前でも平然とハグをし、キスを交わし、嬉しそうに肩や腰を抱いて会場へ向かってった。さすが外資系企業ってところか。2年前……俺がテッドと初めて、ピアノの前でキスしちまった時も……怒られるどころか、なんか拍手されたし。
入り口を入ればすぐ聞こえてくる、空間全体を包むテッドの演奏。階段を降りて行くと地下1階の踊り場で弾いている背中が見えて、仕事の邪魔はしないでおこうと思ったのに、やっぱり素通りはできなかった。
「……昨日、騒がしかったよな、疲れたか」
普段、テッドは一人で淡々と演奏してる。ショーやステージとは違って、本当に"BGM"なんだ。たまに1階のカフェラウンジを利用してるゲストが吹き抜けを覗き込んで写真や動画を撮ったりしてるけど、基本的に注目される感じじゃない。
「話しかけてごめんな」
まだぼんやりしてるテッドの頬にキスをしてから、手を引いて洗面台へ連れていく。顔を洗わせてもまだ眠そうだから、リビングのイスに座らせて歯を磨いてやった。
「出かけるの、やめとくか? 俺、ちょっとピアノの調子も見たいし、無理しなくてもいいよ」
ホテルから与えられてテッドが一人で暮らしてるこの小さな家には|縦型の《アップライト》ピアノがある。普段は手出ししたりしないんだけど、さすがに調律が気になるから触らせて欲しいって少し前から頼んでたんだ。テッドのグランドピアノ……あれをコイツが完全にプライベートな場所でリラックスして弾く音も一度くらい聴いてみたかった。
「……ジジイになって引退する時は、あのピアノ……引き取ってきてくれよ」
その時までに俺は金を貯めて、郊外に俺たちの家を買うつもりでいる。防音室なんていらない、ポツンとした一軒家を。だからそこで、毎日俺だけに聴かせてくれ。なんて贅沢なリクエストをすると間抜けに口を開けたまま小さく頷いた。
「ほら、口濯いでこい」
もう少し寝たがってるかなと思ったけど、シャツと黒いスラックスに着替えてテーブルにつくから、メシを食う気になってくれたらしい。
「今日はオフなんだから、もっとラフな格好にしとけよ」
なんでフォーマルな服を選ぶんだよ、とシャツを脱がせようとしたら抵抗された。なんだよ。
「それがいいのか?」
昼メシっていうか、朝に作ったヤツだけど。オムレツを目の前に置いて「何飲む?」と尋ねたら腕を引いてキスされた。
***
川添いの遊歩道を並んで歩く。変化が苦手なテッドはいつも決まったコースを歩いて、同じ店に立ち寄って、同じコーヒーを頼む。
「……なあ、来週なんだけどさ、俺ちょっと呼ばれ仕事で」
こっち来れねえから……と言おうとしたらテッドが道を曲がるからビックリした。
「て、テッド? そっち行くのか?」
こんなこと初めてで、いったい何事かと……というか、これ……ホテルに向かう道だ。
「テッド、今日は仕事じゃねえだろ」
どうしたんだよ。隣に並んで顔を覗き込んでも穏やかな表情をしてて、意図は読み取れない。
「……ホテル行きたいのか?」
忘れ物でもしたのかな。俺、入館するのに全く相応しくない格好してるけど。裏口から入るよな?
なんて思ってたのに、めちゃくちゃ堂々と正面玄関から入って行くからさすがに「おいおい! スウェットだから! 俺!」と腕を掴んで止めさせる。なのにゲストを出迎えに来てた支配人に捕まっちまった。
「あ、ど、どうも」
ここの支配人はフランス人で、基本的に会話は英語だ。だから英語なんて話せない俺は手に変な汗が出てきて、日本語さえしどろもどろになる。多分「待ってたよ」みたいなコトを言われた気がして、目を白黒させてるとあまりにも自然に案内されて館内へ足を踏み入れた。
「こんにちは」
「え、あ、こんにちは」
レセプションに立っているスタッフがテッドと俺をみて微笑む。知人ってほどでもないけど、裏の廊下ですれ違ったコトはある程度の顔見知り。
「こんにちは」
「は、はい」
ラウンジのスタッフにも、他のゲストを案内中のコンシェルジュにも、足を止めてペコリとお辞儀をされる度にギクシャクと挨拶を返す。
「テッド! なんなんだよ!?」
さも当然という顔で歩くテッドに小声で尋ねるけど、無視だ。無視はねえだろ。
「え? なん、なんで」
地下へ続く階段を降りて行くと、グランドピアノの蓋が開いてる。ここのピアニストはテッドしかいないから、休演日に開いてるハズがねえのに。
「……ちょ、テッド?」
支配人がどこかへ電話をするとBGMが落とされる。エンジニアに連絡をしたみたいだ。ということは……今から、演奏が始まるのか?なんで?
「あの……」
こりゃいったい、なんのサプライズなんだ?俺、誕生日でもねえし、スウェットだし。
「……」
誰からも何の説明もないまま、テッドがピアノの前に座って指を鍵盤に下ろした。俺が好きな、|Bb dur《ベードゥア》を基準にした即興演奏。トニックから代理、裏で取ったドッペルドミナントからドミナントモーション。ああ、つま先立ちになるような半音進行。
「テッド……」
珍しい。こんな"ベタ"な|カデンツ《理論的進行》をきちんと使ったりして。緊張してるのか?その"音"に頬が熱くなった。
「バカ、人前で」
支配人だっているのに、そんな音を出すな。
「山代さん」
「え?」
呼ばれて振り返ると、ブライダルサロンのスタッフが明らかに指輪の入ってる箱を持って立ってた。
「……それ」
「テッドさんから」
俺、スウェットなんですけど。あっけに取られたまま受け取ると、上から見られてたみたいでワッと拍手が沸き起こった。
「うわっ、え、あ、どうも、どうも」
ペコペコしてると演奏が止まって、立ち上がったテッドが俺の目の前に立つ。
「……お、俺も……愛してる」
恥ずかしくて顔が見れなくて、俯いたままだったけど、なんとかちゃんと言えた。聞こえたと思う。そしたら思いっきり抱きしめられた。
【音楽家の世界のBOX 完】
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