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第5話

 しかし、コンディションは大会の五日前になっても悪いままだった。というより、日を追うごとに最悪になっていく。俺はだんだん、練習に通うのが苦痛になってきていた。俺のいらつきが伝わるのか、いつもなら気軽に話しかけてくるチーム仲間もどこかよそよそしい。ただ一人、向井だけは違ったが。 「蓮見」  厳しい口調に顔を上げると、やはり向井だった。 「さっきリーダーとも話してたんだけどよ、お前やっぱり今回の大会は考えたがいい」 「………? どういう意味だ。まさか棄権しろっていいたいのか。冗談じゃない」 「冗談じゃねーのはこっちのほうだ。テメー、まさかこの調子で大会に出て上位に食い込もうなんて考えてんじゃねーだろうな。下手すりゃ死ぬぞ」 「俺はそんなヘマはしない。……それに、別に上位に入らなくてもいいんだ」 「は? じゃ、何のために出場するんだよ。その言葉、まじめにボードやってる奴への侮辱だぞ。そんな気持ちでいるなら、なおさら棄権すべきだ」  きつく詰め寄られて、俺は無言でうつむいた。  なんのため……?  俺、なんのためにボードやってるんだろう。 「……蓮見、お前まさか本気でボウズとのことが原因だなんて言うんじゃないだろうな」  焦れたような向井の言葉は、鋭いトゲとなって俺の深層意識を突き刺した。 「だったら、とっとと仲直りするなり、吹っ切るなりしろ。チームにまで迷惑かけてりゃ世話ないぜ」 「ちがう、向井……!」  そんなはずはない、そんなはずは ――――――  俺は別に日野に執着なんかしていない! 「とにかく、今日はもう帰れ。どっちにしろ今のお前じゃ練習にさえならねーよ。一晩じっくり考えるんだな」  リーダーと向井に無理やり駅まで送られ、俺は呆然と立ち尽くすしかなかった。  うそだろう?  俺は、兄貴みたいにはならない。あんなに執着した挙句、自分も家族をも巻き込んでボロボロになっていった奴みたいには、絶対ならないって誓った。  それがなんだ、このザマは。  なんなんだ、これは………。  これが日野を失った影響なのか………?  ざわついた駅構内の中、俺は重い足を引きずりながら呟いた。  「………ああ、そうだ。ワックス補充しておかないと………」  変なもんだ。なんのために大会にでるのかもわからないまま、大会に必要なワックスは買わなければと思う。それは頭で考えて、というよりはほとんど条件反射に近いものだった。  だが、その時ばかりは、まっすぐ家に帰っていればよかったと思う。  ほんの一分か二分の差だったろうに。 「先輩………?」  いや、声が聞こえてもそのまま無視すればよかったのかも知れない。  だけど、それはまったくの不意打ちで。  聞こえるはずのない声が、ざわついた駅構内の中で、信じられないほど強く俺の耳に響いて。 「………日野?」  振り返った視線の先には、上品なコートを身にまとった女を腕にすがりつかせた後輩が立っていた。 「ねぇ、だーれ? この人。圭吾の知り合い?」  けいご、だってよ。  胸くそが悪くなるような甘ったるい声を発しながら、女が俺を興味深げに凝視する。着ているものほど、中身は上品ではなさそうだ。見るところ、まだ二十歳そこそこというところだろう。  会社帰りなのか、ブランド物のスーツにこれまた高そうなカシミヤのコートを着込んでいる日野は、なんだか違和感を感じさせた。 「………………?」  ああ、そうか。髪型かえたんだ、こいつ。  いつもは真ん中分けにして坊ちゃんぽいのに、今は生意気にオールバックにして撫で付けている。  そんな些細な変化に、何故か胸の奥がギュッと締め付けられる。 「あ ――― 、お久……ぶりです、蓮見先輩」  向こうも俺と同様、まったくの偶然にあきらかに狼狽している。ハーフと見間違えるかのような、色素の薄い瞳を決して俺のそれと合わせようとはしない。 「せんぱァい!? 圭吾の先輩なの、この人? えー、見えなぁい。どーみたって、あたしと同じくらいじゃん?」  うるせーよ、バカ女。  日野、これがお前の新しい彼女かよ。俺は可愛い嫁さん見つけろとは言ったけど、顔だけの女を選べなんて言った覚えはないぞ。  その場の雰囲気を読めない女だけが、ベラベラと喋りまくっている。 「ねー、せんぱい。あたしたちこれから食事に行くんだけど、よかったらご一緒しません?」  この女、俺のウェア姿が見えないのだろうか。これで店に入れって? 「いいのか? デートなんだろ。俺なんかが邪魔しちゃ、そこの色男が怒るんじゃねぇの?」  わざと彼女の耳元で低いエロ声を出してやると、案の定のってきた。 「やーだぁ、全然気にしなくていいですよぉ。それに、せんぱいみたいなカワイイ系も結構タイプだし?え、スノーボードのインストラクターなんですか?いいなぁ、素敵。あたしも教えてもらいたいかもぉ……」 だる…。  俺は別に女嫌いというわけではないが、この時ばかりは腹の底からムカついた。  見ろよ、日野。お前の彼女は、彼氏の前で他の男を口説いてるぜ。  たまらず俺が口を挟もうとした瞬間、どこか諦めを含んだような静かな声で日野が割って入った。 「いい加減にしろ、美香。先輩が困ってるだろ」 「キャハハッ。やーだ、圭吾。妬いてんの? かわいい」   ――― 妬いてんの?  ……どっちに…?   どうしよう、俺、変だ。久しぶりに日野の顔を見た。穏やかな声を聞いた。  いやだよ、こんなの反則だろ……。なんでお前、俺を追いかけてこないで、こんなバカ女と付き合ってるんだよ。俺はな、ここ数週間コンディションも最悪で、今だって向井と喧嘩して追い出されて、大会も出場禁止って………! 「蓮見先輩」 「は、はい」  うわっっ、ハイだって。なに緊張しまくってんだ、俺。かっこわりー……。  日野はバカ女の華奢な肩を抱くと、今度はまっすぐ俺の目を見てきた。 「紹介が遅れました。こちらは高橋美香さん。僕の、婚約者です」  ………………え? 「僕たち、三月に結婚するんです。式にはぜひ来て下さいね。招待状、出しますから」 「せんぱいみたいに可愛い人なら大歓迎よぉ。なんならハネムーンまでいっしょに行っちゃう?」 「美香!」 「ごめーん、冗談だってば。あたしが愛してるのは圭吾だけ」 「ちょ………こら、美香ッ」  …こいつら、人の目の前で派手に音を立ててキスまでしやがった。おそらくは俺が六年間独占してきたであろうその薄めの唇に、女のべっとりしたルージュが張り付く。 「………」  俺はたまらず目をそむけた。 「あれぇ、せんぱい? 顔色悪いですよぉ。大丈夫?純情君の目には毒だったかしら」 「悪い………俺、大会の準備とか……れんしゅ、…とか………」  いそがしいから。  最後の単語は音にならずに、俺はきびすを返した。 「じゃあ、また今度いっしょに遊んで下さいねぇー」 「美香、叫んでないで行くぞ」  そんな会話が背後から聞こえてくる。  またズキンと胸が悲鳴をあげる。  追いかけても来ない。  引きとめようともしない。  こんなことは、今まで一度だってなかった。  ――― ああ、そうか、これが今までお前とちゃんと向き合ってこなかった代償なのか。  バカみたいだ、俺。  いまさら気付いたって、遅いんだよ。 「……はは」  なんだよ、兄貴のこと言えねーじゃん。  俺だって、十分カッコ悪いじゃん。  向井の言うことなんて、全部当たってんじゃねーか…!  胸のうちから、どす黒い感情が湧き上がってきて俺の脳を支配する。  なんだよ、あれほど俺のことが好きだって言ってたくせに。  俺以外の人間と、結婚なんてしないはずじゃなかったのかよ。 「……………ッ」  望む望まないにかかわらず傍にいたから分からなかった。  自分で突き放したときでさえ、気付けなかった。  いつだって、何も言わなくても抱きしめてくれて。  優しい言葉で、気持ちで、俺を追いかけてきてくれていたから。  俺が滑る姿を見て、……微笑んでくれていたから。 『先輩が、一番綺麗でした』  だから、俺はボードをやめられないんだ。  ボタボタと熱い水滴が、目から零れ落ちた。 「かっこわりー……」  ウェアの袖でぐいぐいと顔をぬぐいながら、俺は一つの決心をした。
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