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ままならない想い

 冷たい風を頬で受け止めながら、宝生大学病院の屋上で那生は遅めの昼食をとっていた。  遠慮のない秋風が那生を懲らしめるかのよう、夕方間近になると一層、屋上で好き勝手に暴れている。那生は身震いしながらと、サンドイッチの袋を破いた。  ──寒いけど、やっぱここは落ち着くんだよな。  人があまり寄り付かないから、ひとりになりたい時には有難い場所だった。  クールダウンしたい時などは、珈琲を飲みながら好きな本を読んだりする。これが結構、リフレッシュなる。  患者は入れないし、好き好んで屋上まで来る同僚もいない。独りになりたい時の、避難場所には最適だった。  内視鏡検査の予約がぎっしり詰まっていて、朝からため息を溢した。尚且つ、三人目の患者が上手く全処置薬を飲めなくて、思うように排便が出来ず、施行するまでに時間がかかってしまい、予定が大幅に狂った。  順番を待っている患者のことを考えると、手早くこなしたいのは山々だったが、見落としたら検査の意味がない。  空きっ腹のまま予約を全てきちんと施行し、汗だくのスクラブを着替えて袋に入ったパンと珈琲を持ってここへ来た。    スマホの画面をスクロールさせながら、誰かの飼い猫が、丸まって眠る動画を見つつ、サンドイッチを頬張る。  半分ほど齧ったパンにふと、意識を向けると、周を助けた夜のことを思い出してしまった。  ──あいつ、平気な顔して寝てたな……。  あの日、那生の家に泊まった神宮と周。  ひと組しかない客用の布団を周に譲ると、神宮は那生のベッドに潜り込んで来たのだ。 「一緒の布団で寝るなんて、俺にとっては拷問だっつーの」  高校の三年間、大学の六年間。合わせた九年間で培った神宮を忘れる努力は、美しい寝顔と寝息で木っ端微塵になってしまった。  結局眠れなくて、那生はこたつ用の布団を夜中に引っ張り出し、ソファで丸まって眠ったのだ。 「周君の八年を上回る、九年だぞ。それでも俺は……」  翌朝、神宮はよく眠れたのか、スッキリした顔をして朝食に作ったサンドイッチを周に負けじとバクバクと食べていた。  それがまた、嬉しいやら悔しいやらで、最終的には腹が立ち、仕事を理由にさっさと追い出してしまったのだ。  那生は食べかけのサンドイッチをベンチに置くと、膝に体を預けて項垂れた。 「人の気も知らないで……」 「それって誰のことを言ってる」 「た、たまきっ!」  頭の上から聞こえた声に心臓を鷲掴みされ、那生は頸部を痛めるくらいに勢いよく顔を上げた。 「五日ぶりだな、那生」  逸る鼓動を感じる間もなく、見上げた先には柔らかな髪を風になびかせる神宮が微笑んで立っていた。 「な、何で病院(ここ)に──」  思わず立ち上がって叫んでいた。 「お前に会いに……ってのは冗談だ。薬学部のキャンパスが工事することになって暫くこっちに引越しなんだ。同窓会の日に言おうと思ってたんだけどな」  ドキリとする言葉に一瞬惑わされかけた那生は、脳内で神宮をぶん殴ってやった。  ──そうですか、はいはい冗談ね。 「ふーん。で、工事って何の」  わざと強めの口調で尋ねた。別に工事の内容が知りたかったわけでもないのに。 「耐震工事らしい。そんな訳だから暫くの間、病院の会議室を借りてる」 「……そう……か」  暫く病院に出入りするのか……。  同窓会でさえ、出席するのは一大決心したと言うのに、なぜこの男の顔を頻繁に見ることになるんだ。こんなの想定外だ……。 「それもう食わないなら、寄越せ」  那生の返事を待たず、食べかけのサンドイッチを奪われると、平然とした顔で食べられてしまった。  そんなことされると、どれだけのダメージを喰らうか。那生は一矢報いることもできず、反対に愛おしさを実感している自分に呆れてしまった。 「昼飯食ってなかったから腹減ってたんだ。さんきゅ」 「それだけじゃ足りないだろ。これも食えば」  袋からメロンパンを取り出し、神宮に差し出すと、それはお前が食えと突き返された。 「いらないのか、腹減ってるんだろ?」 「夕べ飲みすぎたから、胃がもたれてる。さっきので充分だ」 「……もう学生じゃないんだから、あんま飲みすぎない方がいいと思うけど。だから胃がもたれるんだ」  関心のないいい方をしてみた。  それが上手く出来ていたかどうかなんて、自分ではわからないけれど、これ以上会話を広げて墓穴を掘るのは嫌だった。  返されたメロンパンを眺めながら、さっきまでの空腹が嘘のように消え、何も口にしたくなくなっている。  嫉妬という感情も、神宮を思い続ける気持ちと一緒に、六年の時を経て蘇ってしまったのだ。  ふと、たばこの香りが風に乗って鼻腔を刺激してきた。  屋上に備えられてある灰皿に向かう背中を見つめながら、二人っきりになるのはやめておけと、頭の中で理性が囁く。  親友のポジションが危うくなる覚悟で、この六年間神宮を遠ざけていたんだろ、と。  顔が見たい、声が聞きたい。そんな誘惑は油断するとすぐ那生を襲ってくる。  薬学部のキャンパスに、神宮の姿を求め足を運ぼうとしたこともある。  遠くから眺めるだけ。こっそりと。見つからなければセーフだ。わざとらしい言葉を並べても虚しいだけだと気付き、何とか踏みとどまれた。  だからこの再会は、もうこれっきりにしなければならない。  また、会わないように努力すればいいだけだ。   「神宮、先に戻るな。たばこも吸い過ぎるなよ」  振り返ることも我慢し、手をはためかせたまま那生は屋上をあとにした。  扉を締めた後、日の射さない踊り場で壁にもたれたまま蹲り、行き場のない怒りに、ひとり耐えていた。   隙あらば卑しく、浅ましく、神宮を欲してしまう心が憎い。 「食べかけを口にする姿を見て喜んでんだもんな……」  伝えたくても伝えられない、『親友』と言う海にもがき溺れ、蓄積された本音で窒息しそうだった。  いっそ結婚でもしてくれればいいのにと、心にもないことを考え、すぐまた、ひとりのものになった神宮を想像して凹んだ。  不本意な考えを直ぐに後悔に変え、僅かな光りが差し込む階段に靴音を響かせながら、那生は身も心も酷使するための仕事ヘと戻った。

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