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久禮兄弟
「え、わかったって!」
宝生病院からの帰り、二駅先にある最寄駅に着いた那生は、トートバックからの振動に気付くと、ホームに降り立ってすぐスマホを取り出した。
画面を確認すると僅かに鼓動が早まり、電話に出た途端、傑からの朗報に人目も気にせず大声で叫んでしまった。
『ああ、確かに久禮院長には子供がいたぞ』
得意げな声で傑が伝えてくれると、嬉しさのあまり、「本当に!」と、また大声で叫んでしまった。
『那生、声がデカい。落ち着けよ』
「ごめん、つい……で、名前は? 歳は?」
落ち着けと言われたばかりだと言うのに、逸る気持ちが抑えられない。
傑に連絡して三日ほどしか経ってないのに、もう聞いてくれたのかと、那生は喜ぶ周の顔を想像してウズウズしてしまった。
『えっとな、名前は久禮瑞季 。あ、男な。年は……二十三歳だな』
久禮……瑞季? 伊織ではない……?
周の探し人は、伊織と言う名前だ。それに年齢まで違う。さっきまでの浮かれた気分が、一気に萎んでしまった。
「なあ、傑。本当に久禮……瑞季だった……?」
『ああ。間違いない。なんだ、探してたやつと違ったのか?』
「あ……うん。ちょっと人違いみたいだ。せっかく調べてもらったのに悪かっ──」
『あ、そうそう。院長にはもう一人息子がいてさ。瑞季の弟だな』
那生が言い終わらないうちに、言下に言われ、スマホを持つ手に力が籠った。
「え、弟? 本当に?」
『ああ……フ、フワックショイ!』
通話口の向こうから、豪快なくしゃみが聞こえると、それが引金になったのか、ワックション、ワックションと連続して聞こえ、辛そうにする傑に同情した。
「花粉症酷いな。大丈夫か、傑」
『ああ。ここ非常階段の踊り場なんだけど、今日風がキツくって、稲やら、麒麟草が俺を攻撃してくるんだ』
鼻をぐずらせ、今にもテッシュを必要としている傑が目に浮かぶ。
「ちゃんと薬飲んでる? ってか傑の症状はオールシーズンだもんな」
『いや、ほんとそれな。眠くならないように処方してもらってるけど、年々酷くなって──あ、そうそう弟、弟の話に戻すぞ。えっと名前が久禮伊織で歳が──』
「い、伊織! 今、伊織って言った?」
『那生、だから声デカいって。そう、伊織だってさ。歳は十九歳だってよ』
いた……。伊織がいた。周君の努力が報われたんだ。
思わぶガッツポーズすると、早く周に伝えたいと、那生の興奮が沸点に達した。
「傑。ありがとう! 本当に助かったよ」
『いや。俺は同期に聞いただけだし。それに、何でそんなことが知りたいのかって訳は聞かないけどさ。ただ、あいつが変なことを言ってたのは気にはなるけどな』
「変な事?」
鼻を啜らせながら、傑がさっきより少し声をひそめてきた。
『普通さ、病院の経営者なら息子に後を継がせたいって親なら思うだろ? なのに、久禮院長は、二人の息子を医学部にすら行かせてないんだ。それに聞いた話じゃ、久禮院長ってすっげやり手らしい。経営が悪化してた四聖病院を立て直した立役者だってな。そんな人間なら尚更息子に継がせたいって思うだろ?』
「うん、まあ、普通はそう考えるかな……」
『なのに息子達は、医者でも医学生でもないのに、二人して病院には頻繁に顔を出してくるらしい』
「でも、医者じゃなくても経営の方を勉強してるとか? だったり……」
『まあそれも考えられるけど、兄貴の瑞季なんて雑誌のモデルとかやってるみたいで、毎回ボディーガード? みたいなの引き連れて病院に来てるそうなんだ』
「ボディーガード? それってモデルだから護衛ってこと?」
傑の言葉を聞き、周と出会った夜に目撃したスーツ姿の男達のことが頭をよぎった。
確か周もそんなことを言っていた気がする……。
『さあ、どうだろうな。それに弟の伊織の方も、夜な夜な院内をフラフラしてるらしい。同期が当直の時に見た話だけど、朦朧としてて、声かけても反応なかったそうだ』
「夜にフラフラ? 何それ、酔っ払ってたってことか?」
『それはわからないけど。会議室や、医局で彷徨うように歩くから、最初はそいつ、とうとう、向こうの世界を見てしまったのかって焦ったらしいわ』
愉快そうに言う傑に、
「もしかしたら、息子の特権で体調悪かったのを診てもらおうとしてたとか……。あ、それとも、院長に用事があったんじゃないのか」
『さあな。俺が直接見た訳じゃないからさ、なんとも言えないけ──フ、フワックショイ!』
神輿を担ぐ時の掛け声みたいなくしゃみが増してきたのを気の毒に思い、那生は傑に感謝を伝えて早々に切電した。
伊織が見つかった。
周に早く伝えてやりたい。
苦労が実を結んだと知れば、純朴な男はどれだけ喜ぶことか。けれど、兄弟がいると周から出てこなかったこが気になる。
施設から引き取られたとしてら、兄とも血は繋がってないだろうか。
それに傑の言ったことも引っ掛かる。
医者にならないのなら、なぜ伊織を養子にしたのだろう。それに、瑞季と言う兄は、もともと久禮の子どもなのか、それとも伊織と同じ施設から引き取ったのだろうか。
単純に、子供が欲しいって理由だったとしても、立場上、わざわざ施設から養子を迎えた理由がわからない──。
ひと雨きそうな澱んだ風が、駅のホームを駆け抜けて那生の頬を撫でた。
カビっぽい匂いが鼻につくと、ふいに不安な感情が生まれて、背筋がゾクっと粟だつ。
たまたま、傑の同期が見ただけだろう。何にせよ、伊織までたどり着いたのは喜ばしいことだ。
早く周君と神宮に報告しないとな……。
スマホの画面に触れようとした那生の手が躊躇う。
画面に表示した、神宮の連絡先。
スマホに登録しとけ、と言われて名前を打つ指が震えていたのを、どうかバレませんようにと祈って操作した。
指先で軽く触れれば、神宮に繋がる懐かしい番号。
本当は忘れてなんかいない。
忘れたくても、那生の心にこの数字は刻印のように刻み込まれているのだから。
あいつにどんな態度をすればいい? かける言葉はどれが正解なのだろう。
必死で忘れようとしてきたのに、顔を見た瞬間、会わずにいた日々は那生の中で無意味なものに変わってしまった。
救いを求めるよう、空を見上げると、錫 色の雲が隠す僅かな月明かりがホームの屋根の隙間から見える。
これまでのように、会わないでやり過ごしたかった。
会えないままでいた方が苦しまないで済むとわかっていたから。
でも、もう遅い……。
心の奥底に閉じ込めていた想いは蓋をこじ開け、那生の密やかな劣情は抗う力を失ってしまった。
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