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第18話
リンが歩き始めた頃、空を飛ぶ小鳥を追いかけて転んだ。血が出て泣いているとすぐに兄が来て、頭を撫でて慰めてくれた。記憶の中の兄はいつもそうだった。
父に無視され時も。母となった人に頬を打たれた時も。生家を出て施設に来ることになった時も。
兄が頭を撫で、手を繋いで、絵本を諳んじて、リンを慰めてくれた。兄だって、家から離れて見知らぬ土地で過ごすことに、兄自身も不安を感じていないはずがないのに。
いつも弱いリンを守ろうとして、兄も弱々しく笑っていた。優しい声で「大丈夫だよ」と慰めてくれた。繋いだ手は、いつも少し震えていた。
そうだ。だから自分は強くなりたいと思ったんた。泣かずに済むように。兄が泣いた時、今度は自分が慰められるように。
ひどい。検査なんていって、どうしてこんなことするんだろう。思い出す度に苦しいのに。
こんな思いをするなら、感情なんてない方がいい。
気づけばリンは声を上げて泣いていた。兄さん。兄さん。兄さん。兄さん。震えた声が紡ぐ言葉は、そのひとつしかなかった。
「脳波、正常に測定が進んでいます」
「澱みは順調に流れていっていますが」
「問題は副作用の有無ですね」
本人を前にして、研究員は構わず経過を報告する。うるさい、と言いたいのに言えなかった。頭の中がぐちゃぐちゃで、それどころじゃなかったら。
「どのみち、これほど「兄」に執着していた弟です。他のに適合する「兄」と組んだところで、上手くいく可能性は低いかと」
「であれば、2番は実験に回すしかないでしょう。「仕事」の人員が減るのは惜しいですが」
「実験をしつつ「仕事」をさせてみますか?」
「というと?」
「決まった「弟」がいない「兄」に、5番がいたでしょう」
「しかし、どう考えても2番と5番は相性が最悪で……」
「だからこそでしよう。どの道ふたりとも初期の被検体だ。先が長くないなら、使い倒すしかない」
ぼんやりとした頭で、再度「兄さん」と呟いてみた。しかし澱みが流れていった効果か、所在なく、誰にも届かずに消える呟きだった。
やがてリンは目を閉じる。涙を流しすぎたからだろうか。頭と瞼が重い。疲れた。
もう、何もかもがどうでもいい。
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