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第38話
何かまずいことを言ってしまっただろうか。
自分の中の感情が揺らぎ始めていたとしても、「こう言われたら相手はこんな感情を抱く」と推測できるほど、リンの中で芽生え始めている感情はそう多くない。
彼はたった一言で気分を害したりはしないだろうが……「仕事」の前中後問わず急に暴れ出すことを知っているので、断言は出来なかった。
感情を移した結果が、人の心の機微が分からないということが、こんなにももどかしいなんて思わなかった。
黙り込んでしまったリンを、考え中だと思ったのか、ぽろっと答えを漏らすように彼は本を投げて寄こした。
彼にとってこれらはただの紙の束で、教養をつけるために読む以上のものではないらしく、とても大事にしているとは思えない放り投げ方だった。
リンに渡された(というより、リンの方に向かってきたとでもいうべきか)本は二冊。どちらもそれほど分厚くなく、淡い色合いが共通している。うち一冊は幼い頃に兄と読んだことがあるが、内容は覚えていない。もう一冊は見たことも読んだことも、題名を聞いたことすらなかった。
「絵本と少女漫画。どっちも先の戦の前に我が国が誇ってた文化だ。しかも情操教育にはもってこい」
絶対にからかってるだろ。
どこかに「兄」が使用できる資料室があって、そこから借りてきたのだろうか。そこには漫画まで揃えられているのだろうか。「弟」もそこに入れるのかは分からない。そもそも移す感情の中に「興味」も入っているのか、「弟」の中で行ってみたいと考える者すらいなかった。
でも、手元にあれば読んでみようと思う。彼が読んでいるなら尚更。まずは話の内容すら予測のつかない少女漫画から読んでみることにした。
――あいつ、何考えてるんだろ。ほんと意味分かんない……頭の中、全部覗けたらいいのに
――私、隣にいるんだよ?もっと話してくれたって……構ってくれたっていいじゃん。……だめだめ!これは勉強会なんだから!赤点回避のことだけ考えるの!……彼の邪魔も、したくないし
――ちょっと、頭ぽんぽんとか今どき流行らないよ!?ってかセットした髪崩れちゃうじゃん!もー……嘘。あんたに触れられるのは、嫌じゃない。ただ、胸がドキドキして、嬉しいのに苦しくて……自分が自分じゃなくなるみたいで嫌なの
話の内容はいたって単純なものだった。少年少女が学校という学び舎に集う、前時代的なもの。高校、と呼ぶらしい。
小さな箱庭の中で好きになったりなられたりを繰り返し、主人公の少女は好きな男に振り向いてもらえるまで、勉学に学校行事にと奔走する。
リンと彼女の間には、年齢くらいしか共通点はない。だというのに、気づけば彼女の恋路が上手くいけばいいと祈るような気持ちで読み進めている自分に気づいた。
彼の気持ちが分からない。もどかしい。構って欲しい。邪魔をしたくない。触れられると嬉しくなるのに、その直後は胸が苦しい。その感情を、自分は知りかけている。
そして、この漫画を読めば、主人公の恋の行方を見届けてしまえば、その感情に名前がついてしまうような気がして、リンは急いで本を閉じた。
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