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第50話

「……悪い」 「……別に」 こちらが幾分落ち着いたと思ったら、今度は感情を移された彼が真っ赤になって俯く。この気持ちを持て余してしまうのは、自分が特殊だったのではなく、人間なら誰しもにあることなのかもしれなかった。 「アンタにじっと見られると、どうしたらいいか分からなくなるんだと思う」 「……それは、すっげぇよく分かった」 「だから、あまり近づいてほしくないけど……近づいてもらえないのは、嫌かもしれない」 感情を移し終えた今では、その感情がどこから湧き出て自分の体にどんな作用をもたらしたのか、霧がかって上手く見えない。だから曖昧な表現になってしまった。 以前のリンが聞いたら、そんな曖昧な言葉じゃ非効率的な伝わり方しかしない。それならいっそのこと口にしない方がいい。そう言ってしまいそうなほどに。 感情の名前も分からない。離れて欲しい。でも離れすぎると胸が痛くて苦しい。そんな矛盾した感情、多くの物事を読み、心情の名前を知ってる彼からしたら、馬鹿らしい悩みに思えるかもしれない。けれど、彼は馬鹿にしなかった。 からかいはするけれど、一番大事なところで自分を馬鹿にすることは決してない。その事実だけでまた胸が温かくなる。体温はすべて、さっきのキスで移ったと思ったのに。 「あー……なんつーか、さ。感情は本能みたいでさ、この施設のヤツらは薬と機械でどうこうできるって実験と検査を繰り返してるけど、たぶんそんな単純なものじゃねぇよ」 「……うん」 「で、人間は感情的なところで、本能で誰かを求める。一緒に暮らしてくれる誰か、自分の力になってくれる誰かだ。犬みたいに、束になって暮らしてる」 最初は、何を話したいのか分からなかった。けれどそれは彼が、結論から話さないだけだ。リンにも分かるように順序だてられた話を聞いていくうちに、結論はなくとも、リンの感情を一緒に考えてくれているんだとわかった。 「独りが平気って奴もいるだろうけど、そういう奴は誰でもいいってわけじゃないだけだ。一緒にいたい人といられたら、やっぱ嬉しいと思う」 上手くは言えねぇけど、そういうのが人間だろ、と彼は言う。感情を知り始めたばかりのリンは、ただ頷くことしかできないけれど。 「お前はさ、実の兄とも会えなくなったんだろ。なら、余計に寂しいし、切ないに決まってる」 「さびしい……せつない……」 繰り返すように呟いた言葉が、すとんと胸に落ちてくる。はっきりとした意味は、たぶん辞書を引かなきゃ分からない。はずなのに、根拠などなくても、そうだ、自分は寂しかったんだと言える。 じゃあ、あの意味の分からない胸の高鳴りは、甘えたかったから?甘えたいなんて感情は、どうすればいいるそんな疑問に答えるように、「オレに言えばいい」と、彼の優しい瞳はそう告げている。 「兄の代わりに会った人間に甘えたいんだろ。その相手がオレっつーのが笑えるけど」 そうなのかな。ただ寂しいから、彼といたいのかな。分からないし疑問が湧いたけど、頷くしかできなかった。視線を少し下げたら、彼が撫でてくれるだろうというのが、手の動きで分かったから。 撫でる手は、今までで一番優しかった。 「お前が人間でよかったよ。誰かといたい気持ちまで、薬でどうにかされてなくてよかった」 「アンタは……」 やっとのことで言葉にした声は、少し掠れて変な抑揚になった。喉に何か空気の塊みたいなものがつっかえているようで、上手く言葉が出てこない。 「アンタは、誰かといたくないの……?」 だって、初対面でリンを本気で攻撃しようとした。感情を移される「兄」の側でありながら、人も建物も壊すことを楽しんでいた。人に弱みを見せたくないから、人前で食事を取ることもしない。 それは、人を嫌っているからじゃないの。人を憎んでいるからじゃないの。 それとも、その感情すら、もう誰のものか分からなくなっちゃった?
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