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第66話

その時、ちょうど彼の母親が帰ってきて、足跡で汚れた床に気づく。自分は靴なんて持ってないから、たいてい裸足だった。適当な布や針金で作った草履を履ければいい方で、それすらもすぐにボロボロになってしまう。彼女は一瞬嫌そうな顔をした。 「玄関マットでちゃんと拭いたよ」 「それだけじゃ落ちるわけないでしょう」 アルの弁明に少し溜息をつき、掃除が大変と言いながら布を取りに行った。そして、自分だったらいつも夜に被って寝るそれに重ねる大事な布を、何でもないように床に押し当てる。やがて真っ黒になったそれは外に出された。どうなるかは知ってる。炊き出しの時に必要な人にぼろ布として配られるんだ。 アルと彼の母と一緒に夕飯を食べた。お椀ひとつ、お皿ひとつだけじゃない。容器がいくつもあって、おかわりまである。夢中になって食べた。 お腹いっぱいでうとうとしていると、布団をしいてもらえる。冷たくも固くもない場所で寝たのは初めてだったかもしれない。 すぐに眠りに落ちた分、朝起きるのも早かった。まだ太陽が登り始める前、空の鳥が騒ぎ出さない頃だった。それでもよく寝た方なのか、彼と母で話し合っている。 「偉かったわね。このままじゃあの子、きっと凍えてたわ」 「お母さんのまねだよ。いつも困ってる子を助けなさいって言ってるから」 「そう、いい子ね」 彼の母はそう言うと、アルの頭を撫でておでこに唇を寄せ抱きしめた。自分には見たことの無い仕草だったけど、彼が「この後お手伝いもするね」と張り切って隣の調理台にかけていった姿を見ていればすぐにわかる。これは親密さを表す動作であること。彼はそれを数え切れないくらい何度も受け取ったこと。 そして、自分は決して受け取れないこと。 連鎖するように記憶が浮かんでは消え、ひとつの真実にたどり着いた。 そうだ。彼と彼の母は一度も自分を名前で呼んだことがないじゃないか。呼んだことがないということは、聞かれてもいないということだ。そうすれば自分にも名前なんてないと言えたはずだから。そうすれば、家族みたいに彼がつけてくれた?わからない。聞かなかったことが、君とかあの子と呼ばれ続けたことだけが全てだから。 この街では名前にさしたる意味はない。ただ他と区別できればなんでもいい。住処にや縄張りにしている場所で呼ばれたり、身体的外見から呼ばれたりする。自分がよく言われたのはクソガキ。それと、いつからか分からない白髪を指して、白いの。 彼らはそう呼びすらしなかった。それだけが事実だった。自分たちは対等になんか最初からなれやしなかった。自分たちは、家族なんかじゃ、「兄弟」なんかじゃなかった。 それでも、オレは名前をつけて呼んで欲しかった。 いっそ彼が意地悪をしてくる少年たちのように、自分にとって単純な悪役ならよかった。ただ憎むだけで済んだから。でも彼のことは好きだった。自分のために泣いてくれたことがあった。でもあれは家族の愛情じゃないのかもしれない。可哀想な子を哀れんでいたもので、自分がずっと欲しくて、飢えていて、求め続けたものじゃない。それは今、決して届かないものとして前にある。 寂しい。悔しい。そんな言葉は次々と頭の中に浮かぶのに、それがどうしてかは言葉に出来なかった。
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