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第72話
分かり合ったのは一瞬だけで、その後、自分の生活に大きな変化はなかった。
ただアルが遠くへ行ってしまった分、彼の母は歳の近い自分によく話しかけるようになった。自分はそれに適当に答える。反抗期の母と息子さながら、互いに名前は呼ばなかった。「ねぇ」と「あんた」だけで不思議と会話は成立していた。
相変わらず名前は無い。しかし腹が減るとよく手が出るので、地域の良くない輩には狼呼ばわりされる羽目になっている。
こっちから手を出した覚えは無い。火の粉を振り払うように、向かってくる奴に対して殴り返していただけだ。するとアルの母が宥めてくるのだが、特に気にしなかった。腹減り狼だとかやせ細った狂犬とか、くだらないあだ名で揶揄されたらまた殴る。人間扱いされないことによる鬱憤は暴力で解決する。
そんな自分に何を思ったのか、アルの母も取り繕うことをしなくなった。顰め面で、今日の炊き出しの余り物を教室の、自分が座ってる机に音を立てて置く。
「……零れてんだけど」
「丁寧に運んで欲しいなら、それ相応の態度を取りなさい」
それでも、炊き出し中は他の客には笑顔を向けていたのだから大したものだ。とんだ猫かぶりだったと今なら思う。
教室の中の顔ぶれもだいぶ変わった。夢を見て賭けでここから出てく奴もいれば、道を踏み外して暴力の道に走っ奴もいる。
自分は変わらず中途半端で。暴力を行使するくせに、なかなかこの場所から足を踏み出せないでいる。
「この活動に悪評がたったら困るの。あんただって同じでしょ。暴力沙汰ばっかり起こして、女なんて誰も近寄って来ないでしょう。そんなんじゃ家族だってできないわよ」
「こんな場所で作っても地獄だろうが」
対等なんて存在しないこの場所で。あんたみたいに。
ましてや自分には、彼女のような人に教えられるほどの学もなければ他者に分け与えられるほどの金も持ってない。見ず知らずの子どもを恐喝していた奴をさらに恐喝して、小銭をまきあげる程度だ。ついでにそいつが腹を好かせていそうなら彼女の炊き出しへ連れてくる。
「だったら出ていけばいいのよ。貯えはそこそこあるから、援助できるわ」
「……それは、あんたがもともと家族に貯めてた金だろ。そんなもん使ってたまるかよ」
腹が減っていたから、汁物を一気に飲み干す。それでも、成長期なのか少しずつ背が伸びてきたこの体には足りない。けれどまだ子どもが列を作っていたから諦めた。目を向けると自分に笑顔で手を振っている。この前助けた奴だった。飯にありつけるのなんて一瞬なのに、お気楽な笑顔をしていると思う。
よそ見をする自分に、「難しく考えすぎなくていいの」と彼女が言う。
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