86 / 149

第86話

重い瞼を持ち上げると、辺りは薄暗かった。多少暗くても景色は見えるはずなのに何も無かった。四方八方を灰色の霧に包まれている。それどころか足元も、消し炭のような濃い灰色の泥に覆われて、逃れようと一歩進む度にずぶずぶと沈んでいく。 「兄さん!」 咄嗟に手を伸ばした。藁にもすがる思いなんかじゃない。目の前に兄がいたからだ。自分の血の繋がった兄が。 いつも一緒にいたはずなのに、なぜか長いこと会っていなかったような感覚になり、必死に手を伸ばした。それでも届かない。声を上げてようやく彼は振り返る。 いつもみたいに優しく微笑んでくれた。そのことにほっとすると、泥が膝下まで上がってきて自分を飲み込もうとする。 「兄さん……っ!」 伸ばした手を兄が取る。これで沈まずに済むと思ったのに、気づけば兄は目の前に来ていて、自分と同じように泥に浸かっていた。いつの間にか泥は膝上までせりあがってきている。自分が沈んでいるのか、誰かがこの空間に泥を流し込んでいるのか、リンには分からなかった。 「兄さ……っ」 兄が両手で自分の頬を包む。そして口づける。いつもの優しい口づけとは少し違っていて、ぶつかった唇が少し切れて血の味がした。 自分も、誰かに同じことをしたような気がする。 探るというよりは蹂躙するように、口内を舌がまさぐる。やっと唇が離れたと思った時には、どちらのものとも分からない唾液が泥の中に落ちた。 「……どうして」 いつもなら、感情を移したあとは頭がぼーっとして、体が気持ちよくなって、何も考えられなくなる。ただ目の前にいる人の腕に包まれ、全てを委ねてしまえる感覚がある。なのに今はただ頭が冷えていくだけだ。そして、なぜ兄はここにいるんだろうと思った。だって、兄はもう……。 リンの問いに答えないままに、兄は唇を開く。 「彼のことも、壊すの?」 僕にしたみたいに。感情を移し続けて、脳をぐちゃぐちゃにして、壊すの? やがて兄の形をした何かは輪郭を失い、溶けていくように灰色の泥へと沈み、霧が覆った。壊れてしまったんだとリンは思った。 そして、自分が隣にいる限り、ふたりが被験体の「兄弟」でいる限り、彼もまた兄のように狂って、壊れてしまうと考えた。 恐怖。後悔。焦燥。鬱屈。知らなかった感情に次々と名前がつけられ、泥になって心に溜まっていった。

ともだちにシェアしよう!