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第87話

自分の体は案外丈夫だったらしい。ロウはひと息吐いてから、横たわる彼へと視線を向けた。 そもそも、あのクソみたいな汚泥の中で生きてきたわけだから、当然といえば当然だ。 「仕事」で傷を作っても翌日にはどうでもよくなったし、情緒不安定になった時は本を読むなり寝るなりして、心を狭い施設ではなくどこか別の場所へと向ける。全部薬のせいでその効果が切れたからといえばそれまでだが、時間が経つに連れて、恐怖も後悔も焦燥も不安も鬱屈も、混ざりあい形を失い、無視しても構わない大きさになった。 いつもに増して、今回はさらに胸の内はすっきりしている。理由は目の前で寝ているリンを見れば明らかだった。 彼は無茶をして、自分の感情を吸い取ることを選んだ。その結果、薬の過剰摂取と慣れない感情の多さに体が限界を訴えて倒れた。最初は倦怠感から立つことができなくなり、やがて目眩と吐き気を訴え、今は熱を出して寝込んでいる。 ロウは施設でも比較的無茶が利く方で、職員たちにほぼ脅しのような言い分をもって彼の看病をすることにした。繋がりのない家族のことを疎んでいるのに、屁理屈で繋がりを生み出して勝手を言うことに躊躇いはなかった。 「兄さん……」 熱を出してから幾度となく、リンは兄のことを呼ぶ。この兄とは、決してロウのことじゃない。彼としっかり血の繋がりのある兄のほうだ。それをたまらなく悔しく思うのに、今のロウは、本物の兄の代わりになって彼の頬を撫でている。これで少しでも彼の苦しそうなこえが和らげばいいと思うのは、ただの思い上がりなのかもしれない。 「兄さん……ごめんなさい……兄さん……」 彼がどんな夢を見ているのかなんて、考えるまでもなかった。リンは自分の兄を、その心を壊してしまったことをいまだに悔いている。最近感情豊かになったばかりなのに、なったからこそ罪悪感に苛まれるなんて、あんまりだ。 涙が伝う彼の頬に、そっと指を添える。少し乱暴に拭いそうになって、ひと呼吸を置いて声をかけた。 「……謝らなくていい。恨んでなんかいないんだから」 自分でも、こんなき柔らかいこえが出せるのかとロウは驚く。出会ったことも無いし、ほとんど顔も見たことないけれど、彼の兄ならきっとこう言うと思った。 「僕は君の兄だ。家族を恨んだりしない。だから、謝らなくていいんだよ」 声をかけると、苦しそうなうわ言が少し止む。その間に、少しでも熱が下がるようにと布を水に浸して額に置いた。リンの兄と称してしまった違和感を押し殺して。 看病なんてしたこともなく、彼の額どころか枕まで濡らしてしまった。施設の職員が入ってくる気配は無い。部屋には自分がいるし、それ以前に「兄弟」がどうなろうと、他にも被験体の代わりはいるとでも思っているのかもしれない。 「兄さん……」 リンが薄く目を開けた。しかし熱でうるんだ瞳はどこかぼんやりとしており、きっとまだ夢の中にいるのだろう。自分を「兄さん」と呼ぶのがその証拠だった。 「沈みたくない……僕は、どうすればいい……?」 そう呟いて、また目を閉じ眠りに落ちていった。どんな夢を見ているのだろう。きっとろくでもない夢だ。 ロウはもう、何も言えなかった馬鹿なガキじゃない。だから今だって。言いたいことを言いたいように言えるはずだった。しかし何を恐れているのか、本音を言うことを躊躇った。これだけの高熱だ。リンが目を覚ましても、きっと何も覚えているはずがないのに。 寝息が規則正しくなってから、ようやく唇を開くことにした。彼の「どうすればいい」という問に答えるために。 「自分を大切にしてくれよ……オレなんかのために、もう二度と、こんな無茶すんな……しないでくれ……」 リンのほうがよほど苦しんでいるはずなのに、ロウの声は苦々しく、本音は懇願へとかわり、部屋の空気を重苦しく変えた。

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