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第88話
リンが目を覚ますと、見慣れた天井が見えた。嫌な夢を見ていたのか、びっしょりと汗をかいてシャツが肌に張り付いている。見ていた夢の内容は覚えていない。
そんな中で、首元が妙に冷たかった。起き上がって少し横に目をやれば、湿った布が枕にもたれかかるように落ちていた。熱を出しても、施設の誰にもそんな看病をしてもらったことはない。風邪薬を投与されればまだいい方で、たいていは寝かせられて終わりだった。
最後に看病してもらった記憶は兄のもので、けれど几帳面な彼ならすぐ寝返りを打つリンに合わせて、何度も額に布をのせ直してくれていたはずだ。
他の誰が、なんて、すぐにわかった。
ロウは部屋に置いてある椅子に腰掛け、本を読んでいた。決して分厚いとは言えない本。淡い薄紫色の装丁と、男女ふたりが描かれている表紙。かつてリンが読んでいた少女漫画を持ち込んで、暇つぶしにめくっていたらしい。
持っていた巻数は、ちょうど自分が読んでいたところの続きらしかった。自分があれほどどぎまぎしながら読んでいた場面。登場人物はもっと親密になって、読んでいる側さえドキドキさせる展開が待っているはずなのに、涼しい顔で読み進めている彼をずるいとすら思った。
「ねぇ、それ……」
なんでここにいるのかとか、寝ている自分を看ていてくれたのかとか、聞きたいことはたくさんある。ありすぎてどれから言葉にしようか迷うくらいに。奪った感情で値が高くなっているのだろう。次々と疑問が浮かび消えることがない。それなのに、頭は妙にすっきりしていて変な感覚だった。
「それ、なんで持ってるの?」
中でも最大の、けれど前回は気づくことのなかった疑問を彼に向けてみた。
「……よく考えたら、漫画ってひと昔前のもので、禁書だし」
「兄」が読む本は、たいてい施設から支給された、心理学とか史学とか、小難しく分厚い本ばかりだった。その上、「仕事」の内容を考えれば、この施設は政府と繋がっている。そんな場所の人間が、被験体に禁書を読んでいいとするはずが無かった。
「ある部屋からかっぱらってきたんだよ」
「部屋?」
「そ。施設のお偉いさんの私室みたいなもんだけどさ。本がいっぱいあるし、人が来ることは滅多にない。めちゃくちゃ簡単に持ち出せるんだよ。手癖の悪さには自信あるしな」
その手癖というのは、侵入も含まれているんだろうか。彼が施設に来る前に暮らしていた場所では、きっとそれも当たり前の行為で――
「ごめん」
咄嗟に謝った。自分の薄暗い考えが、自分でも許せなかったから。彼は最初、驚いたように目を丸くしていたけど、口は挟まなかった。自分の言葉を待ってくれているのだと思った。
「ロウの過去、ちょっと見た」
本当は、ちょっとどころじゃないけど。
「あー……」
ロウは困ったように頭をがしがしと掻く。目がすっと細くなるが、言葉はなかなか降ってこない。彼自身も、どう言おうか考えているようだった。
「……そうじゃねぇだろ。最初に謝るのはそこじゃない」
最初はリンにも意味が分からなかった。最初にどころか、他に謝ることも上手く思い浮かばない。看病をさせてしまったことだろうか。
共感して、想像する。かつて兄が作戦をたてる時は、そうしていた。でもリンには上手くできない。彼ならどう考えるかはできないから、自分が彼の立場だったらどう思うかを想像した。
「……勝手に、薬とか飲んで、無茶した」
「正解」
怒った顔が嘘のように笑顔に変わる。それが普通の感情の変遷なのか、感情を移された「兄」ならではのことなのか、リンには分からなかった。それでも、ころころと変わっていく彼の表情と感情を、好ましいと思った。
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