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第89話

起き上がり、近づいて、彼の腕をとる。そこには、感情を受け取った時に見た記憶と同じ傷跡があった。じっとよく見てようやく、蚯蚓が這ったような痕が見える。 「……気づかなかった」 「兄弟」と呼ばれる程度には、近くにいると思っていたのに。まだ自分には、何も見えていないらしい。彼の傷跡をそっとなぞると、彼はくすぐったそうに身を捩った。 「これは、いつの傷?」 「たぶん、火薬で窓硝子が吹っ飛んだ時のだな」 暴力的な組織が何度も貧民窟の学校を壊そうとしたことがあったという。その度に彼は、殴るなり蹴るなり武器を使うなりして、なんとかあの場所を守ろうとしていたらしい。 やっぱり、自分が見ていた彼の記憶は、感情が大きく動いた一瞬だけで、まだまだ知らないことがたくさんあるんだろう。全て知りたいという欲望が心の端で大きく膨らんでいくと同時に、彼と自分は違う人間である以上、それも難しいだろうと分かってはいた。 「……もう、嫌か?」 自分が黙ったままでいることを、悪い方に受け取ったのかもしれない。 「もう、オレとは家族に……「兄弟」でなんか、いたくない?」 彼の心のうちには誰が浮かんでいるんだろう。アルか、今まで壊れていった「弟」たちか。 誰にせよ、彼は自分の過去が薄暗く、隠すべきものであると思っていたのかもしれない。全て知ってしまったら、誰とも家族には、対等にはなれないんだと。 そんなことないと、リンは大きくかぶりを振った。勢いがよすぎたのか、頭がちょっとくらくらする。 「アンタは僕を馬鹿にしなかった。からかいはしたけど」 感情が分からないし。ずっと施設にいたから世間知らずだし。でもそれを蔑んだりはしなかった。 「その理由が、やっと分かった」 彼なりに、対等でいるためだった。それだけが、家族になる縁のように信じていた。「兄」と「弟」には明確な年の差があって、家族ではあれど対等では無いのに。 彼がそれを知らないことすら、愛おしいと思った。そしてこの感情が、自分をからかってる時の彼のそれと、同じだったらいいのにとも。 「なんだよ、その感想」 彼は力の抜けた顔でふっと笑う。そしてもたれかかるのかと思ったら、自分を柔く抱きしめてきた。 「ゲンメツしたとか……もっと知りたいと思ったとか、ねぇの」 「意外なとこもあったけど、だいたい聞いてたとおりだったし……そもそも、幻滅するなら最初にしてる」 「それもそうか」 自分の体を包み込む腕の力は、緩むどころかぎゅっと強くなる。ちょっと苦しい。 「知りたいかどうかは……教えてくれるなら?」 「なんで疑問形なんだよ」 彼は面白そうに笑う。耳元を彼の声が軽くくすぐる。自分でも曖昧すぎる答えだと思う。彼への疑問は湧いて出てくる。彼の身に起こった出来事もそうだが、それ以上に、感情を知りたかった。何を考えてた?どんな風に思った?楽しかったことは?泣いたことは?次から次へと湧き出るのに、聞いていいかは分からなかった。 「……聞いたら怖いから?」 「オレの悪行はもう知ってんだろうが」 「そういう怖さじゃなくて……」 「こんなことを気にする奴なんだとか、こんなことを聞く奴なんだとか、ゲンメツ?されたくない……」 「ふーん」 今度はこっちが感想それだけ?と思う番だった。でも彼は自分が身動ぎすると離さないというように力を込めるので、まだ一緒にいる気はあるらしい。間が空いたのは、考えていたからだろうか 「お前、オレのこと結構好きなんだな」 やれやれと小さな笑いが込められた声だったので、思わず「は?意味わかんない」と返す。照れ隠しという感情は、まだ知らなかった。 「……好きとかも、よくわかんない」 不貞腐れたように呟くと、髪にささやかな感触があった。そっと口づけているような感覚。そこに触れても、こっちの感情は移りはしないのに。

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