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第102話
「……なに、してんだよ」
唇を離した時、彼の言葉に込められていたのは戸惑い。彼が表す中で初めて見る感情かもしれない。
「今、そんなことしたって意味ないだろ」
「ある。少なくとも、僕の中では」
「……感情も、移してないのに」
体液を摂取させなければ、こんなのただのじゃれあいだと彼は言った。
「ねぇ、さっきからわざと言ってるの?僕より感情に詳しいくせに」
ロウならば、自分がどんな感情を抱いているのか、ぴたりと当てられる。そんな普通の人には不可能なことすら、できるように思えていた。
しかし彼はお手上げなのだと、わざとらしく両手をあげる。
「「弟」の前ではカッコつけてたかったんだけどな、オレ、もともと学がねぇんだよ。知らないことだってある。いくら感情を移されても、それに伴う誰かの記憶を覗いても、多くの本を読んだとしてもな」
「でも、僕は本で読んだよ」
少女漫画でも、主人公が好きな相手に「キスだ」と言ってしていた。彼が勧めてきた小説でも、主人公は結婚する相手と永遠を誓う際に口付けしていた。
「外の世界では、感情を移すんじゃなくて、好きな人とすることに意味があるんだよ」
そういえば、昔、薬を投与される時に説明された気がする。感情を移す効果が実証されたのは、とある恋人による偶然の行為からだったと。その人たちも、自分たちのように口づけたのだろうか。自分たちのように「兄弟」ではなかった気がする。恋人と兄弟は違う気がする。それでも、「兄」のことが好きなら、「兄弟」で唇を重ねてもいいんじゃないだろうか。
「好きな、人と……」
「うん」
呆然と呟いた彼を見上げる。驚いたように目を丸くしていた。
「そんな存在、知らねぇ……」
「好きって感情は?」
「……」
無言は肯定と受け取った。
「じゃあ僕が初めてだ」
ロウのことは、いつも自分より一歩先を行く「兄」だと思っていたから、不思議な気分と得意げな気持ちが同時に生まれる。
「お前だって、そんな感情知らねぇだろ」
「でも、今の気持ちは、他に呼び方が見つからない。だから僕は勝手に決めた。これは好きって感情だって」
「……気のせいだろ。オレを会えない兄さんとやらの代わりしてるだけだ」
腹が立った。浮き上がった気持ちが重しを付けて水底に沈められたようだ。自分の気持ちを、勝手に決め付けないで欲しい。
背伸びをして、少し目にかかりそうになっている彼の前髪を遠慮なく横に避ける。彼だっていつも遠慮なくこっちの髪をぐしゃぐしゃにするんだから、これくらい許されるだろう。両頬を両手で固定して、無理やりこっちを見させた。自分からも、怯えたような瞳を真っ直ぐ見つめる。
「全然似てない」
「……は?」
「僕の兄さんはこんな粗野じゃないし、野蛮じゃない」
「そういうことじゃねぇよ。そうじゃなくて、兄って存在が欲しくて、オレを……」
「その言い方はずるいよ。違うって言いきれないから。そうかもしれなくても、そうだとしたって、好きだって思ったんだから仕方ないでしょ」
言葉ひとつ、気持ちひとつ伝えるのに、どうしてこんなに時間をかけていい争いまでしなきゃいけないんだろう。
「……さっきまで泣きそうな顔してたのに、今は怒ってんだな」
「してない、そんな顔」
「してた。オレが気のせいって言った時」
「だったらアンタのせいでしょ。僕だってなりたくてなってるわけじゃ……」
言葉が止まったのは、途中で掠め取るように唇に柔らかいものが触れたから。さっきのお返しだといわんばかりに。
「……臨時的な「兄」を、変えてもらうよう暴れてくる」
そう言って、ロウはこっちが何かを言う前にすたすたと歩いていってしまった。上手く逃げられたような気がする。
だって、まだ返事を貰ってない。物語の中の主人公たちは、「好きだよ」と言われたら、「僕も」とか「恋人になろう」とか、果てには「結婚しよう」とまで言ってきたのに。
もし「気のせいだ」が返事だとしたら……今度こそ自分は、泣きながら怒ってしまうだろう。
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