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第110話
「兄」の部屋に窓はない。だから今が朝なのか、それとも夜明けなのかも分からないけれど、目覚めたらリンの隣にロウはいなかった。
また何冊か本でも見繕いにいったのかもしれない。夜の間に感じていた温もりが手の届かない場所にあることをもどかしくも寂しくも思い、かといってどんな顔をすればいいのか分からないので、隣にいないことに安堵を覚えてもいるのも事実だった。
罪の意識はもちろんある。この先も胸の内に渦巻き続けるんだろう。自分がのうのうと生きていてもいい無垢な存在だとはどうしても考えられないし、手にかけてきた相手にもう顔も覚えていない存在が数多くいることを、異常だと感じる。
それでも自ら命を絶とうとか、誰かに絶ってもらおうという自暴自棄な考えはなかった。身勝手でも、傲慢でも、生きていたい。ロウを想いながら。昨晩よりはすっきりした頭で、ちゃんとそう思えた。
そして、彼もそうだったらいい。地獄みたいなこの世界で、今まで命を絶つことなく生きてくれたことを、そして自分と出会ってくれたことを、不思議にも、運命にも思えた。
ぐちゃぐちゃで、どろどろになっていたはずの身体は綺麗に拭かれていた。全部洗ってから出て行ったのだろう。以前看病された時の、びちゃびちゃになってしまった枕を思い出して、少し笑った。
やっぱり、自分には確かめなきゃいけないことがある。
リンは部屋を出て、職員にも見つからないよう気をつけながら自分の部屋に戻った。
机に置いてある手帳をぱらぱらと開く。該当の日付を見つけてからは、指でゆっくりとなぞっていく。
リンが書き留めている日記は、日記といえども極端に感情を排除した文章で書かれている。ただのメモ書きみたいなものだ。最初は、薬で感情を失っていたからそう書くしかなかった。揺らぎが出てからは、感情を周囲に悟られない訓練として、排除しながら書いた。
もともと、この日課も自分の記憶が抜け落ちていることに気づいてから始めた。感情を移していくと、それに付随している記憶も、ぼんやりと曖昧なものになっていくことが多かったから。その日あった出来事、言われた言葉、知った事実を、主観の入る隙は極力なくして、見たこと言われたことそのままに書き留めてある。
読みたい日付を見つけ、何度も何度も読み返した。
ロウの記憶のこと。
自死を選んだ被験体番号12番。
「兄」の行く先はとうに決まっているという職員たちの噂。
感情を取り戻し罪の意識に塗れた自分の今も見つめながら考える。
この施設がおかしいことも、人の命をなんとも思っていないことも、とうの昔に分かってはいた。そこには被験体も標的も違いはない。
このままいけば、ロウは狂って死ぬ。兄さんだって長くないかもしれない。
自分ですら――説明の受けていない薬の副作用が出ないとも限らない。
手帳を閉じて次に向かう場所は決まっていた。彼が資料室にいるなら、入れてもらおう。そしてできる限り調べたい。
この国の歴史を。施設の真実を。実験の進捗と、自分たちが置かれた状況を。
そして、大切な人たちと生きていく術を。
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