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第119話
そんなリンの異変に気づいたのは、やはり兄であるリョウが最初だった。まず、口数が少なくなっているのがおかしいと思った。そしてそれ以上に、季節は春から夏に変わろうとしているのに、弟は頑なに腕まで隠せる厚い服を好んでいることに、違和感しかなかった。
ほとんど夏になったある日。兄は弟を水浴びをしようと誘ってみた。いつもはリンの方から胸を弾ませて駆けてくるのに、最近の彼は気分じゃないからと、部屋にこもって窓の外から流れる雲を見ているだけだった。
血の繋がらない、若すぎる義母と上手くいっていないことは察していた。気分転換になればと、屋敷近くの林、そしてその奥にある泉へと誘った。
リンはついてくるものの、その動きは緩慢で、目的地に着いてもおもむろに足を清水に浸すだけ。瞳はどこか遠くをぼんやりと見ていた。
「どうしたの?いつもは楽しそうに泳いでいただろう?」
脱がないのかと上着の袖を引っ張ろうとした。その手は即座に叩き落とされる。
「ごめ、ごめんなさい……」
反射的に接触を拒絶し、怯えを見せる。急に触られたことに驚いただけならこんな反応にはならない。嫌な予感がした。じんわりと肌に吹き出した汗が一気に冷えて、頭をぐらつかせている錯覚に陥る。
「やだ……!お兄ちゃん、やだ……っ!」
泣きじゃくり半狂乱になる弟に、お前のためだからと言い聞かせ無理やり服を脱がせた。腕と腹。それと脚。服を着ていては目立たない場所に血の滲んだような赤黒い痣があった。
「……これは、いつから?」
尋ねてもリンは泣きながら首を横に振るだけだ。
「お願いだよ、リン。何か言って」
「ごめ、なさ……」
涙でぐしゃぐしゃになった顔をさらに鼻水が濡らそうとしていて、袖で拭う。そのときすら、弟の体は恐怖に震えていた。
「ごめんなさい……お願いだから、誰にも言わないで……」
「だめだよ。言わなきゃ。こんなの、ただの暴力だ。放っておけるはずがない」
「ちがう!」
謝ってばかりいたリンの声が、支離滅裂な言い訳に変わる。なぜ加害者を庇うのか、リョウには本気で意味がわからなかった。
「これは躾だからとでも言われた?リンも、本当にそうだって思ってる?」
「ちがう!しつけじゃない!そんなはずない!」
火のつくように泣いてまで庇っているのは、あの女じゃない。なら誰だ?そらした弟の瞳をこちらに向ける。涙で揺れる瞳。怖がっているのに助けを求めない表情。助けを求めたら、まるで自分の罪まで暴かれてしまうとでもいうような
「僕は悪くない!何もしてない!悪い子じゃない!」
叫ぶようにリンは続けた。
「なのに、あの人は何度も何度も僕をつねった!躾だって言った!僕が悪いんだって言った!何もしてないのに!?何が悪いの!?」
彼女を母と呼べず、実母に似た外見で父を傷つけ、不器用で、口下手で、のろまで、陰気で。考えれば考えるほどリンには分からなくなって、欠陥を探れば探るほど、自分が存在してはいけない人間のように思えた。
そう考えると胸が痛くなって涙が溢れ、不思議なことに考えれば考えるほど頭はぐちゃぐちゃになっていき、痛みは全然良くならない。次第にこんな感情などいらないと思うようにもなった。口に出せば捨てたことになるのか。それともはっきりしてしまうから取り返しがつかなくなるのか。わからないままに言葉にする。
「きらわないで!お兄ちゃんだけは好きでいて!」
悪いのなら変わらなきゃ。いい子にならなきゃ。全部変えなきゃ。でもその前に、兄にだけは大丈夫だと言ってほしかった。リンはそのままでいい子だと言ってくれたら、甘えん坊な自分でも、自分を無くすためにがんばれる気がした。
「悪くない。リンは何も悪くないんだよ」
「でも。嫌だって思っちゃうんだ。お父さんも、あの人も、使用人のみんなも、みんなみんな、嫌いだって思っちゃうんだ……こんなの、僕、悪い子だよ……これからもっと悪い子になるかもしれない」
「だとしても、何があっても、お兄ちゃんは味方でいる。リンは悪くないってずっと言い続けるから」
世の中にはいろんな家族がいる。仲良くなれるわけじゃないのはわかってると思う。でも自分たちは何があっても味方でいる。そんな家族でいようと、兄は小指を差し出して約束を促した。
指から伝わるささやかな兄の温もりが優しくて、リンはさらに泣いた。叫んでいるようで言葉になってない鳴き声だった。兄はしゃくりあげる弟の背中を撫で続けた。
ようやく落ち着き、言葉になった弟の一言は「ありがとう」だった。
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