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第134話
そんな彼が大切な覚悟を決めた季節を、彼が自分のことを知ったきっかけの出来事を、リンはぼんやりとしか覚えていない。たぶん辛かった思い出だから、兄が積極的に感情を奪ってくれた時だからだろう。
覚えてなくても、たった今想像できた過去の風景を、胸の内にぎゅっと抱きしめる。もう失くしたり落としたりなんてしないように。
誰にも愛されなかったなんて嘘。自分にはふたりの兄が、家族がいてくれた。だからこそ余計に思う。脱出は3人じゃなきゃ嫌だ。彼だけを置いていくなんてできない。
「綺麗だって思ったのに、今じゃこれだもんな」
こちらの瞳を覗き込んで彼が言わんとしていることは分かる。だから首を横に何度も振った。その仕草すら、きっと彼の想像通りだと思いながら。
「やだ。僕は、アンタもいなきゃ絶対行かない」
3人で抜け出すのだ。この、鳥籠と揶揄するには無機質すぎる施設を。
「やだやだって、イヤイヤ期かよお前は」
「それでいいよ」
イヤイヤ期が何なのかは知らない。それでも、たぶん自分のような年齢の人間を指す言葉じゃないのは、なんとなく分かる。
「イヤイヤ期でもいい。バカでもアホでもタコでも言ってくれていい。でも、アンタが僕の言う通りにしなきゃここから動かない」
「……言わねぇよ、そんなこと」
分かってる。彼なら言わないだろうと思って言った。
「そうだよな。お前、きっとワガママなんて言ったことないよな」
オレが初めてか、と、柵越しになんども手を握って楽しそうに言う。互いの感情はもう移さない。物理的にも無理だし、そもそも薬もないけれど、移すつもりもなかった。
彼が笑いながら言ったから。「久々に思い出したもん、大事にとっとけ」と。
それから、しょうがねぇと覚悟を込めてひとつ息を吐く。
「兄なら、弟の願いは叶えるしかねぇんだろうよ」
しかし、どうしたって時間と手段の問題はある。脱走劇は、ほとんど運任せの一発勝負になるようだった。
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