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第138話
ロウは、聞いても意味が無いと判断した。それは目の前の男に話が通じないから、正常に見えてとうの昔に狂っていたからじゃないんだろう。
「コイツがオレに目をかけてたのはさ、ただ、母の……」
代わりだと思っていたから。彼女が死んだことをずっと後悔していたから。そのどちらを彼が口にしようとしたのかは分からない。その前に言葉が途切れた。老いが見え始めた男に……父親だと思っている男に、縋りつかれてしまったから。
「頼む!行かないでくれ!君が欲しいものを何だってあげよう。だから私の前から消えないでくれ。君の代わりなんていないんだ!」
「お前は一体、誰に話しかけてるんだよ」
彼は「君」を見ているようで、その目に映っているのは「君の代わり」だ。だからこそ、自分の手元に置いておきたかった。でもそのふたりはどうしたって違う人間だった。手元に置いておきたいのに近づきたくない。そんな矛盾を抱えながら、施設内で許される範囲の、欲しいものを与えることしかできなかった。
ロウの心には、一瞬だけ再会し、互いのことも分からないまま死んでいった幼馴染みの言葉が浮かんでいるんだろう。「君は代わりのきく存在か」「寂しいな」という二言が。
「私の……オレの、ミツ……」
最初は何を言っているのか分からなかった。やがて思い当たり、ぼんやりと呟く。
「……ああ、オレの母さんって、そんな名前だったんだ」
ミツ。古風なのか分からない現代風なのか分からないその二文字は、ロウが心の中で何度反芻しても耳慣れなかった。
「昔は、金さえあれば、食いもんに困らなければ好きに生きれると思ってたよ。でも……これじゃあ、金だけあっても意味ねぇな」
ロウはさっき使ったばかりの鍵を胸元から取り出した。今、ナイフは持っていない。しかしこれだけでも十分に武器にはなる。眼球を狙えば金属は脳に届くだろう。
狂いながら生きるよりもいっそ、とどめを刺してやった方が彼は楽になれるんじゃないだろうか。名前しか知らない母のもとへ送ってやった方が、息子を恋人の代わりにしたくてもできない狂気の中から、解放できる。
「やめて!」
「いっ……!」
彼が振り下ろそうとする拳を思いっきり掴んだ。「仕事」での人体を破壊する訓練の賜物か、急なことで制御がきかなかったからか、予想以上の勢いと力がこもってしまった。……指の骨とか、折れてたらどうしよう。
「いきなり何するんだよお前は!?」
「これ以上、アンタに傷ついてほしくない」
「言ってることとやってることが完全に真逆じゃねぇか」
「……アンタは、やせ細った獣なんかじゃないよ。人を傷つけたら自分の心も傷つく「人」だから」
目の前の父親に囚われていた彼の意識を、こちらに向ける。アンタはもう、やせ細った狼じゃない。僕と一緒に生きていく決意を固めた人。この脱走劇だって、誰かを傷つけるためのものじゃないから、ふたりで被害を抑える話し合いだってした。
「……ま、金蹴りじゃなかっただけマシだな」
「そんなに擦らなくていいでしょ」
一体どれだけ根に持たれてるいるんだろう。
そんな他愛ないやり取りさえ、彼の父親には聞こえない。ぼんやりと息子を見る彼の目を思えば、今から何を言っても通じないだろうという諦めさえ湧く。
それでも、例え通じない自己満足だったとしても、リンは彼に話しかけた。
「彼はミツさんじゃありません。ロウっていう、貴方たちが付けた名前がある。僕にとって、誰の代わりにも……兄の代わりでもない、大切な人です」
跪いて、手を取り握っていた拳を解かせて、瞳を真っ直ぐに見て続ける。
ロウは本で読んだ結婚の話を思い出した。かつてこの国にあった古い風習で、両親に挨拶する際にそうしたと。外の世界や今のこの国では、どうなっているか分からないし、このことをリンは知らないだろうけど。
「僕に、彼をください。アンタたちみたいに、恋人で終わる気も、閉じられた世界で過ごす気もありません。外に出て、家族になります。ずっと一緒にいたいんです」
父は何も言わなかった。ただ膝をついて呆然とし、その瞳には既に息子を映していない。糸の切れた人形のようだった。
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