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第2話
月曜日が始まった。
オフィスで販促ツールの準備をしていると、電話があった。ショッピングモールの催事担当者の後藤さんからだった。
「えっ。旅行用品フェアに『悠歩』シリーズを五種類とも出品していいんですか?」
「ユア・シューズとも相談したんだけど、カラーバリエーションが豊富な方がインパクトがあるから。それに、虎ノ瀬さんの熱意にお応えしたいしね」
「ありがとうございます……!」
営業をやっていてよかった。
努力は絶対に実る。俺は確信を深めた。
通話を終えて、販促ツールの準備に戻る。すると、三沢さんが雄叫びを上げた。
「すげーっ! 大阪支社、神崎洋太とサプライヤー契約を結んだんだって!」
「神崎って、テニスプレーヤーの?」
「Vバードから、うちに乗り換えてくれたってことか?」
「一体誰が交渉に当たったんだ……?」
俺はもしやと思い、竜岡にメールで訊ねてみた。
『もしかして神崎選手の案件は、竜岡さんが担当したのか?』
『たまたまな。大阪市内で開催されたスポーツ用品の展示会に、神崎さんがお越しになったんや。
神崎さんと僕、高校が一緒で。地元トークで盛り上がってたら、Vバード製品の不満をこぼされて。うちのシューズ、クッション性高いですよーって売り込んだら興味を示してくれたんや』
つまり、竜岡は何気ない雑談を通してクライアントの心を掴み、競合他社の欠点を聞き出した。
そして自社製品のアピールをして契約に取り付けるという最高のクロージングをしたというわけか。
神崎洋太選手は世界大会で活躍しているトップアスリートだ。今回の契約で竜岡がミヨシギアにもたらした功績は計り知れない。
旅行用品フェアで販路を拡大したと喜んでいた自分が小さく感じられる。
もっと上を目指さないとダメだ。
竜岡に勝つために何をすればいい?
俺は常日頃から心身を鍛え、万全のコンディションで仕事にあたるようにしている。どんな小さな案件でも手を抜いたことがない。いつだってベストを尽くしている。
でも、もしかしたら努力だけでは竜岡のようなスタープレーヤーに勝つことはできないのではないか?
「虎ノ瀬。また怖い顔してるぞ」
三沢さんが俺の肩をぽんと叩いた。
「おまえはおまえにできることをやればいい。そうだろ?」
「……それだけじゃ満足できません。俺は竜岡に勝ちたいです」
「まあ、同期だから張り合いたくなる気持ちは分かるよ。でも、会社員生活は長距離走だ。最後に笑うのは竜岡じゃなくて、おまえかもしれない」
慰めの言葉をかけられるほど、自分がみじめになる。俺は三沢さんから離れるために、「トイレに行ってきます」と言った。
洗面台の鏡に映った俺は、鬼のような形相をしていた。
◆◆◆
通勤時間を利用して、俺は『さかさまの霧』を読み終えた。意表を突くトリックに、涙を誘う犯行動機。論理と情が絶妙のバランスでブレンドされた傑作だった。
俺は本を梱包して、竜岡の元に送った。
数日後、竜岡からお礼の電話があった。
「ありがとう! 大事に読ませてもらうわ」
「仕事の方はどうだ」
「おかげさまで風邪を引かずに元気でやってるよ」
また大きな契約を取ろうとしているのではないか?
竜岡を問い詰めたかったが、俺は踏みとどまった。一方的にライバル視していることを悟られたくない。
「虎ノ瀬さんと同じ趣味でよかった」
「まあ、こんな風に本の貸し借りができるからな」
仕事の成果を争っていることを抜きにすれば、竜岡は気のいい男だった。
十日後、竜岡から小包が届いた。
中身は俺が貸した『さかさまの霧』と神戸の有名店の焼き菓子だった。
『荷物を受け取ったよ。気を遣わせてしまったみたいで、すまない。ありがたくいただきます』
メッセージを送ると、電話がかかってきた。
「ほんの気持ちや。気にせんといて」
「竜岡さんは犯人が分かったのか?」
「いや、まんまと騙されたわ」
「俺もだ。この作家、ミスリードを誘うのが巧みだよな」
「ミステリー作家の頭の中ってどうなってるんやろ。一度のぞいてみたいわ」
俺は竜岡の脳内の方が気になる。どういう段取りで業務にあたっているのだろう? ミスをすることはあるのだろうか。あったとしたら、どうやってリカバリーしてきたのか。
しかし、仕事のやり方について訊ねるのは敗北宣言のように思われた。俺は竜岡のフォロワーになりたいわけじゃない。竜岡を追い抜いて、トップになりたいのだ。
「虎ノ瀬さんとおしゃべりしてると時間があっという間に溶けてくな。僕たち気が合うね。また通話しよ」
「……好きにしろ」
「折原紺さんのレビュー、楽しみにしてるで」
「そっちもレビュー書けよ。借りた本だからって遠慮することはない」
「いいの? それじゃあ、アップさせてもらうわ。実はもう出来てるんだ」
さすがはサラサラ脳髄といったところか。俺は「じゃあな」と言って通話を切った。
1Kのアパートが静かになった。なんだか、ちょっと寂しい。
いや、寂しいってなんだよ。それではまるで竜岡との交流を喜んでいるみたいじゃないか。
気分を切り替えるために、俺はバスルームに向かった。
◆◆◆
竜岡を上回る成績を叩き出したい。あの、いつも余裕たっぷりな男に焦りや敗北感を刻みつけてやりたい。
たぎるようなパッションを抱きつつ、俺は粛々と仕事をこなしていった。営業は前のめりすぎてもいけない。すべてはクライアントの話をよく聞くことから始まる。
通常どおりの成績しか出せないまま3月が過ぎていった。
廊下の片隅、あるいは喫煙室や給湯室で人事異動の噂が流れるようになった。
ざわざわした雰囲気のオフィスで、俺は開発課に提出する資料を作成していた。取引先の店舗から寄せられた現場の声をまとめたものだ。
ミヨシギアはユーザーの意見を出発点として製品を考える、マーケットインという手法が不得手である。
これまでのように開発課主導のプロダクトアウトで新商品に着手しても、課題であるユーザーの若返りは望めないだろう。開発課は職人気質の社員が多く、忌憚のない意見を述べたら猛烈に反論されるに違いない。
開発課とやり合うのは気が重いと思っていると、倉橋営業課長からメールが届いた。
『16時に営業部長室に来てください』
もしかして内示か?
指定された時刻に営業部長室に行くと、予想どおり異動を言い渡された。
「私が企画課に転属ですか?」
思わず聞き返してしまった。
俺は企画職に求められる柔軟な発想があまり得意ではない。ルールに則って決められたことを行う方が性格的に合っている。営業の仕事でもオーソドックスなやり方しか試したことがない。
「せっかくのお話ですが、本当に私でよろしいのでしょうか。企画課は希望者が多いと伺っておりますが」
夏野営業部長は大らかに微笑んだ。
「クリエイティブに興味があるタイプばかり集めても、面白いアイディアは出てこない。虎ノ瀬くんのような実務家が必要なんだ。営業の仕事で培った現場感覚をぜひ活かしてほしい」
「承知しました」
自席に戻った俺は、しばし呆然となった。企画課の課員は、アイディア千本ノックと称して、何本もの企画書を作成するらしい。果たして俺にできるだろうか?
開発課に提出する資料を仕上げていると、17時になった。
三沢さんが「みんな、社内掲示板に注目!」と声を上げた。
「4月1日付の人事異動が発表されたぜ!」
俺は社内掲示板を開いた。
ああ、やっぱり虎ノ瀬拓斗は営業第一課から企画課に転属と書かれている。
ん?
大阪支社の異動メンバーを見て、俺は固まった。竜岡が本社の企画課に転属になるらしい。
つまり、俺と竜岡は同じ部署で働くことになるのか。
「虎ノ瀬、よかったな。これからは竜岡は敵じゃなくて、おまえの仲間だ」
「いえ。俺は仕事であいつに勝ちたいです。竜岡よりもいい企画を考えてやります!」
「なんでおまえは竜岡が絡むと、闘争心むき出しになっちゃうの」
「自分でもよく分かりません。ただ言えるのは、あいつは俺とは異質な存在だということです。だから、竜岡が認められると自分が否定されたような気になる……」
三沢さんはため息をついた。
「おまえが短距離走やってたのは知ってるけどさ。会社員の仕事ってのはチームワークだぞ。同期をライバル視するのは程々にな」
「……はい。ご忠告ありがとうございます」
俺は拳を両方とも握りしめた。
アイディア千本ノックを恐れている暇などない。勝負はもう始まっているんだ。
会社帰りに俺は書店に立ち寄り、商品企画に関する本を買い漁った。
重たい紙袋を抱えてアパートに戻る。
夕飯を済ませたあと、俺は本を開いた。3C分析やMVVといった、企画に関する用語を頭に叩き込む。
待ってろよ、竜岡。
俺に負けて悔しいっていう気持ちをおまえに植えつけてやる。
『今夜の晩ごはん。大根炊いたでー』
竜岡から写真付きのメッセージが届いた。
俺は『おやすみ』というスタンプを返すだけにとどめた。
竜岡は毎日、他愛のないメッセージを寄越すが、俺は奴と馴れ合う気はない。俺にとって竜岡は、倒すべきライバルだ。
まぶたが重たくなってきた。
俺は保冷剤をタオルに包み、目元に押し当てた。竜岡に勝つためにはどんな努力だってしてみせる。
こうして春の夜が更けていった。
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