5 / 11
第5話
土曜日はなかなかベッドから起きることができなかった。
11時頃になってようやく俺は動き出した。トーストとトマトという簡単な食事をとって、とりあえずスマホに触る。
ニュースサイトに、トライヴァース社のエントリーモデルが好評だという記事が掲載されていた。
俺はノートを開き、アイディアを書きつけた。
雨の日にも強いシューズ。一日中履いても疲れないパンプス。有名デザイナーとコラボしたスニーカー。
いずれもネットを検索すれば、似たような商品が見つかった。
俺の頭から出てくるアイディアなどたかが知れている。今日は体を休めることに集中した方がいいかもしれない。
動画配信サービスでサスペンス映画を観たり、好きな音楽を聴いているうちに夕方になった。
食材を買いに行かないといけない。
俺は近所のスーパーに足を運んだ。
青果コーナーで野菜を選んでいると、見慣れた人物が現れた。
「竜岡さん」
「奇遇やね! 今夜のメニューは何?」
「常夜鍋 」
「いいなあ、それ。虎ノ瀬さん、うちに来ない? 一緒にごはん食べよ」
ひとりで部屋に戻っても、立派な企画を考えられない自分を責めてしまいそうだ。俺は竜岡の誘いに乗ることにした。
「嬉しいわぁ。虎ノ瀬さんとごはんだなんて」
「そんなにはしゃぐほどのことか?」
「好きな人とは一緒にいたいやろ」
「……俺はおまえが苦手だ」
「うん。知っとる」
俺たちは買い物を済ませた。
竜岡が持っている蛍光グリーンのエコバッグの中は食材でいっぱいである。
「重たくないか? 代わろうか」
「じゃあ一緒に持とう」
俺は片方の取っ手を掴んだ。竜岡は「まるで恋人みたいやな」とつぶやいて、目を細めた。
「この時間が永遠に続けばいいのになぁ」
「俺は腹が減った。早く鍋を食べたい」
「虎ノ瀬さんって恋愛絡みのこと、鈍いって言われない?」
「いきなり何だ。俺は確かに色恋沙汰には疎いが、今のこの状況でどうしてそんな話が出てくるんだ?」
竜岡は天を仰いだ。
「ああ……。僕は前途多難や」
「竜岡さん。さっきから話が見えないんだが? 説明してくれ」
「さあね。ミステリーマニアなら推理してみてよ」
他愛のない会話を繰り広げているうちに、竜岡のアパートに着いた。
◆◆◆
竜岡の部屋は青と白でコーディネートされていた。
フローリングはピカピカに磨かれているし、モノは整理整頓されている。室内の様子から竜岡のマメな性格が伺えた。
壁際に本棚が置かれている。
「すごい……。見事にミステリーばっかりだな」
「僕は好きになったらとことん追いかけたいタイプやから」
「竜岡さんって意外と執着心が強いのか? 人や物事と一定の距離を保っているように見えるけど」
「そういう風に思ってもらえるように振る舞ってるだけや。僕は恋した人とは四六時中一緒にいたい。毎日声が聞きたい」
「情熱的なんだな」
俺はローテーブルに案内された。竜岡は食事の準備を始めている。
「具材を切るの、手伝うよ」
「いいってば、キッチン狭いし。本でも読んでて」
「それじゃ、お言葉に甘えて……」
本棚からミステリーに関する評論を抜き取る。ページをめくれば、書き込みが目に飛び込んできた。まるでフォントみたいな几帳面な文字。竜岡によるメモだ。
「……よく勉強してるな」
「僕、要領悪いねん。思ったことは一旦言葉にしないと、ようまとまらん」
評論を本棚に戻す。
本棚を見渡せば、真っ白な文庫本があった。背表紙にはタイトルが記されていない。一体何の本だろう?
本棚から取り出して中身を読もうとした瞬間、俺は手を止めた。これは竜岡の日記ではないか。そういえば、全ページ白紙の文庫本が市販されていると聞いたことがある。
たまたま開いた4月1日のページには、「人生、薔薇色!」と書かれていた。
人の日記を盗み見るのはお行儀が悪すぎる。
俺は文庫本を本棚に戻した。
「虎ノ瀬さん。その本棚の一番のお宝は、僕の日記やで」
「すまない! 日記だと知っていたら、手に取らなかった」
「素直なお人やなぁ。そういうところが、たまらなく好きや」
「その……好き好き言ってくるの、やめろ。妙な気分になる」
竜岡がキッチンを離れ、俺のそばに近づいてくる。そして、ずいっと身を乗り出してきた。ほとんど鼻と鼻が触れそうになる。
「僕は虎ノ瀬さんが好きや。それっていけないこと?」
「……俺にとって、竜岡さんはライバルだ。好きとか嫌いとか、そういう観点から考えたことはない」
「鈍ちんやなぁ。まあ、開発しがいがあるけど」
さらりと前髪を撫でられた。
まるで恋人を慈しむような仕草だった。俺は大いに困惑した。どうして竜岡は俺にそんな真似をしているんだ?
「あ、新手の嫌がらせか?」
「そうかもな」
竜岡は笑うと、キッチンに戻った。そしてローテーブルに置かれたカセットコンロの上に、鍋をのせた。
ほかほかと湯気を立てながら、具材が煮えている。
俺と竜岡はポン酢で常夜鍋を食べた。
「うまいな。毎晩食べても飽きない味や」
「ほうれん草に豚肉だからな。栄養バランスがいいよな」
「豆腐も食べて。ネギも旨いで」
「ありがとう」
こうやって鍋を食べていると、仕事のストレスが軽くなっていく。竜岡と俺ならば、新しい企画を考えられるのではないか。そんな楽観的な気持ちになる。
「竜岡さん。社内コンペ、勝とうな」
「もちろん」
「それで、肝心の企画だけど……」
俺の声をかき消すように、隣の部屋から音楽が聴こえてきた。ずんずんとお腹に響くビート。アグレッシブなボイスパーカッション。俺がふだん接したことがないタイプの音楽だ。
音量はやがて低くなった。
その代わりに、トントントンという足踏みのような音が聴こえてくる。
竜岡がため息をついた。
「お隣さん、ストリート・ダンスをやっててな。部屋でも練習しはるんや」
「へえ……」
「熱心な方でな。イベントがあるから見に来てほしいって言われて。フライヤーもろた」
俺はフライヤーを見せてもらった。
渋谷でダンスフェスティバルが行われるらしい。
「ストリート・ダンスってどんな感じなんだ?」
「動画、たくさんあるよ」
俺は竜岡のスマホで動画を視聴した。
音楽に合わせたキレッキレのパフォーマンス以前に、俺はダンスチームが履いている靴が気になった。
「全員、Vバードのスニーカーじゃないか!」
「まあ、ヒップホップ・カルチャーと親和性が高いブランドだからね」
「竜岡さん……。ストリート・ダンサー向けのスニーカーなんてのはどうだ? ミヨシギアの技術があれば、クッション性が高くて軽い靴を提供できるんじゃないか」
俺の発言に、竜岡は目を見開いた。
「その発想はなかった……」
「ストリート・ダンスのパフォーマーはおそらく、デザイン性も重視していると思う。外部デザイナーとコラボできたらベストだな」
「虎ノ瀬さん、冴えてる! 待って。僕、メモを取るから」
竜岡はノートにペンを走らせた。
「うおーっ! 燃えてきたで! 仕事に行くのが楽しみや」
「なあ。ダンスフェスティバルっていつなんだ?」
「明日や」
「行ってみよう! 出場者にシューズに関するヒアリングができるかもしれない」
「虎ノ瀬さん、頼もしいな。惚れ直したで」
俺と竜岡はお隣さんに挨拶に行った。
お隣さんは竹谷さんという若い男性だった。ピアスをいくつもつけている。でも、目が優しい。
「イベント、来てくれるんすか? 嬉しいっす!」
「あの、私たちは仕事でシューズの企画を担当してるのですが、竹谷さんのお仲間に簡単なヒアリングをさせていただくことは可能ですか?」
「パフォーマンスが終わったあとなら大丈夫っすよ」
話がまとまった。
竜岡の部屋に戻った俺は、ガッツポーズを取った。
「ミヨシギアの新たな歴史を作るぞ!」
「僕、虎ノ瀬さんの笑顔……大好きや」
懐にぎゅっと抱きつかれる。俺は竜岡の髪をわしゃわしゃとかき混ぜた。
「あかん。幸せすぎて、死にそうや」
「何を言ってやがる。明日、イベントでヒアリングをして、月曜日には企画書をまとめるぞ!」
「まあ、仕方ないか。僕は虎ノ瀬さんの仕事熱心なところが大好きや」
俺は竜岡と、明日の待ち合わせ場所について話し合った。
「お邪魔しました」
「また来てね」
竜岡のアパートを出ると、細い三日月が輝いていた。
今の段階では、ストリート・ダンサー向けのシューズは思いつきにすぎない。でも、これから形にしていきたい。希望の光は淡いけれども確かにそこにあるのだ。
◆◆◆
日曜日の渋谷は人でごった返していた。
竜岡が俺のシャツの裾を掴んだ。
「はぐれないように、こうしてもいい?」
「子どもみたいなことを言うなぁ」
俺が微笑むと、竜岡の頬が赤く染まった。
「虎ノ瀬さん、今日も男前やね」
「そっちだって。あそこにいる女の人、竜岡さんのことをチラチラ見てるぞ」
「あっそ」
竜岡の反応は素っ気なかった。俺は渋谷の街を歩きながら、竜岡に探りを入れた。
「意中の人がいるのか?」
「うん。目の前に」
「……相変わらず冗談が好きだな。それで? どういう子なんだ」
「プライドが高くて、ちょっと不器用で。そして、すごく優しい人だよ」
「そうか。うまくいくといいな」
俺としては何気ない質問だったのだが、竜岡の瞳は潤んでおり、恋する人そのものだった。なんだかいけないものを見てしまったような心地になる。
「虎ノ瀬さんこそどうなの。どんな人がタイプ?」
「付き合っていてもひとりの時間を尊重してくれる人かな」
「大人やね。僕は好きな人とは四六時中、一緒にいたいわ」
「ミステリー小説が読めなくなるぞ」
「恋人とぺたんとくっつきながら読書すればいいやん」
おしゃべりに興じているうちに、目的地であるホールに着いた。
入り口でチケットを購入する。
竹谷さんが所属するダンスチームは、三番目に出場する予定になっていた。
俺と竜岡はホールの中に移動して、席に座った。だいぶ後ろの列だが仕方ない。
周りにいる人々を観察する。いかにもヒップホップ・カルチャーに親しんでいそうな人が多い。
「アウェイだな」
「そうだね。僕らみたいな地味なカジュアルを着てる人は少ない」
「うちの商品に興味を持ってもらえるかな?」
「それはやってみないと分からないよ。自信持っていこう!」
やがて幕が上がった。
スポットライトが明滅する。
ダンスチームがステージに出てきて、華麗なステップを披露した。ダンサーたちが音楽に合わせて一斉に動く。統率のとれた群舞に俺は圧倒された。
クライマックスを経て、ダンサーたちがポーズをとる。
俺は夢中で拍手を送った。
「すごい……! ストリート・ダンスってこんなに迫力があるものなんだ」
「よく鍛えとるなぁ。あんなに足上がらんで」
二番目のチームもまた素晴らしいパフォーマンスを披露した。
さて、次は竹谷さんの所属するチームである。
スポットライトが消えて、会場が暗くなった。
音楽のイントロが始まった瞬間、照明が点いた。ステージが一気に明るくなる。竹谷さんはセンターに立っていた。
五人の男性ダンサーが揃って軽快なステップを刻む。俺はステージから目が離せなくなった。腕の振り方まで統一感がある。このパフォーマンスをものにするまで、どれだけ練習を重ねたことだろう。
音楽が止まった。
俺は魂を抜き取られてしまったかのように、ぼうっとなった。竜岡の拍手の音でなんとか我に返ることができた。
「素晴らしいパフォーマンスだったな……」
「せやなぁ。竹谷さんに早く感想を伝えたいわ」
次のチームがどんなパフォーマンスをするのか興味があったが、俺と竜岡は席を立った。
ロビーで待っていてくれた竹谷さんのチームに挨拶をする。
「このたびはヒアリングの機会を与えていただいて、ありがとうございます」
「早速ですが、ダンス用のシューズへのご要望を聞かせていただけますか?」
竹谷さんが言った。
「そうっすね。安物のシューズだとソールが硬くて、足が痛くなるんですよ」
「それでVバードのスニーカーを履いてらっしゃるんですね」
「でも、みんなと同じってのも正直気に入らない。靴紐の色とかカスタマイズできたらいいなって思います」
俺はいただいた意見をメモした。
竹谷さんの仲間からも要望が出た。
「軽いのがいいです! 履いてるを忘れるぐらい、フィット感が抜群のやつがいい」
「デザイナーのエニシ・コウセイとのコラボモデルなら、どんなに高くても買います」
「ジャンプしたあと、足の衝撃を和らげてくれるシューズが欲しいなぁ」
俺が必死でメモをとっていると、竹谷さんが頭を掻いた。
「すみません。俺たち欲張りすぎですよね」
「いえ。生の声が聞けて助かります」
「ストリート・ダンサーにスポットを当てたスニーカーって今までになかったから。期待してます」
約30分に渡るヒアリングを終えて、俺と竜岡は竹谷さんたちにお礼を言った。
「後日、弊社のノベルティを贈らせていただきますね」
「いいんすか? ただ喋っただけなのに」
「みなさんの意見はどれも貴重なものでした。本当にありがとうございます!」
竹谷さんたちに見送られて、俺たちはホールをあとにした。
◆◆◆
休日のオフィスは閑散としていて、いつもとは違う雰囲気だった。
竜岡はデスクに座ると苦笑した。
「僕、休日出勤なんて一度もしたことなかったのに」
竹谷さんたちから寄せられた意見を早いうちにまとめたくて、俺たちは出社することにした。
竜岡が企画書のテンプレートを開いた。
「虎ノ瀬さん、名前は何にする?」
「そうだな、ダンスに関連して、ステップという言葉をつけたい」
「羽のように軽いから、ウィング・ステップ……ダメだな。それだとVバードを連想しちゃう」
「シンプルで覚えやすくて、耳なじみのいい言葉……」
俺は思いついた意見を言った。
「『ステップ・アロー』は? 観客のハートを射抜くステップができるシューズという意味だ」
「おお、いいねぇ。強そうな語感で、インパクトがある」
検索エンジンでサーチしてみたところ、類似する品名はないようだ。
「それじゃ、『ステップ・アロー』ということで!」
「竜岡さん。ありがとう」
「どうしたの、いきなり」
「休日出勤に付き合わせてしまった。でも俺、竜岡さんと仕事をしてるのが楽しいんだ」
「僕もやで」
竜岡が微笑む。
かつて、こいつは俺のライバルだった。倒すべき敵だった。でも、今は違う。誰よりも俺のことを分かってくれる、大事な相棒だ。
「さーて! パパッとまとめて、美味しいもの食べに行こう」
「そうだな」
俺たちはパソコンに向かった。
「まあ、こんなもんか」
16時になった。
資料がまとまったので、俺は顔を上げた。竜岡もひと段落ついたようである。
「なあ、虎ノ瀬さん。デパートに寄っていかない?」
「いいけど、なんで」
「社内コンペの日、お揃いのネクタイをしていこう」
「そういえば、クラスのTシャツとか、高校生の時に作ったなぁ」
「気合い入りそうじゃない? どう?」
ちょうど新しいネクタイが欲しいと思っていたところなので、俺は話に乗った。
「いらっしゃいませ」
デパートの紳士服売り場にて、俺と竜岡はネクタイを選んだ。
「ピンクにしよ!」
「悪目立ちしすぎだろう」
「じゃあこれは?」
竜岡が指差したのは、矢絣 模様のネクタイだった。青と緑の二種類がある。
「虎ノ瀬さんは青が似合うな。僕は緑にしようっと」
「矢絣模様って、不幸を取り除いて、幸運を射抜くっていう意味があるらしいな」
「さすが、博識やね。縁起のいいネクタイつけて、コンペに勝とう」
レジに向かおうとした時、竜岡が言った。
「虎ノ瀬さんのネクタイは僕が買う。それで、僕のネクタイは虎ノ瀬さんが買って」
「贈り合う形にしたいのか」
「うん。ダメかな」
なんでわざわざそんな真似をしたいのか竜岡の胸中を図りかねたが、値段は青も緑も同じである。俺は素直に応じることにした。
ラッピングと会計が終わった。
竜岡が俺にネクタイを渡してきた。
「はい。僕の気持ちや」
「ありがとう。俺からも、どうぞ」
「虎ノ瀬さん、ネクタイを贈る意味って聞いたことがない?」
「いや。何か説があるのか?」
「……あなたに首ったけ。そういう意味やで」
俺は竜岡に笑顔を向けた。
「ふたりとも女っ気がないからな。そういう遊びで心を慰めたくなる気持ち、分からなくもないよ」
「僕は……本気や」
「え?」
「なんでもない。帰ろう」
地下鉄に乗り込んだあと、竜岡は終始無言だった。
竜岡は俺と話している時、たまに傷ついたような顔をする。俺は何か不快な思いをさせているのだろうか。
答えが見つからないまま、あざみ野駅に着いた。
ともだちにシェアしよう!

