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第8話
月曜日に出社すると、竜岡が笑顔で挨拶をしてきた。
「おはよう」
「……おはよう」
竜岡は何も起きなかったかのように振る舞っている。でも、竜岡の気持ちを知ってしまった以上、一連の出来事を「なかったこと」にはできない。
「虎ノ瀬さん。僕、今日は半休を取ったんだ。午後は不在なのでよろしくお願いします」
「分かった」
俺たちは自席でパソコンに向かった。役員会議に向けて、プレゼン資料をブラッシュアップしていく。
やがて12時になった。
竜岡は「お先に失礼します」と言って、退勤した。迷いのない颯爽とした足取り。竜岡が恋に悩んでいるだなんて誰も想像できないだろう。
俺は社員食堂に向かった。
今朝はバタバタしていて弁当を作れなかった。
日替わり定食を頼んで、窓際の席に座る。すると、三沢さんがトレーを持って近づいてきた。
「虎ノ瀬、元気にやってるか」
「はい。おかげさまで」
「なんか悩みごとがあるように見えるけど気のせいか?」
「大丈夫ですよ。ご心配なく」
三沢さんは肉うどんを豪快にすすったあと、声をひそめて言った。
「竜岡にヘッドハンティングの話が来てるんだってよ」
「えっ」
「うちを辞めてベンチャーを立ち上げた和泉って奴がいるんだけど、竜岡の営業力を買って、引き抜こうとしているらしい」
俺は目の前が真っ白になった。
竜岡がベンチャー企業に移る? そんな未来など想像したくない。俺はこれからも竜岡と肩を並べて仕事をしていきたい。
「虎ノ瀬、そんなに落ち込むなよ。まだ確定した話じゃない」
「……あいつ、今日の午後は休みなんです。話を聞きに行ったのかな」
俺はショックのあまり箸が進まなかった。
竜岡はベンチャー企業への転職の話を受けるかもしれない。あいつにしてみたら、恋心を打ち明けても気持ちに応えてくれない同僚と離れることができる、いいチャンスだ。
三沢さんが言った。
「虎ノ瀬が引き留めれば、竜岡はミヨシギアを辞めないんじゃないのか」
「俺の言葉にそこまで力があるでしょうか」
「……バーベキューの時、おまえたちを見ていて竜岡の気持ちに気づいた」
「三沢さん……!」
「誰かに言いふらしたりはしねぇよ。人を好きになるのは尊いことだ。相手の属性なんざ、問題じゃない」
俺は三沢さんの発言を聞いて、己を恥じた。俺はどうして竜岡の気持ちを汲んでやれなかったのだろう。ただ驚くばかりで、竜岡がどんな決意のもとに告白をしてきたのか考えてあげられなかった。
竜岡に会いたい。
会って、ずっと一緒にいたいと伝えたい。
「虎ノ瀬、後悔しないようにな」
「はい」
俺は三沢さんにお礼を言って、企画課のオフィスに戻った。
◆◆◆
仕事を終えた俺は、地下鉄に乗った。
道中、スマホでミステリー小説のレビューサイトを眺める。サラサラ脳髄は最近、レビューを投稿していなかった。
竜岡は今、余裕などないのだろう。リアルではベンチャー企業へのお誘いという大きな決断を迫られている。
俺とのことも竜岡の心に重くのしかかっているのだろうか。負担をかけていることが心苦しい。
俺はスマホから顔を上げた。
車内を見渡し、竜岡の姿を探す。
でも、奴の姿はどこにもなかった。そうだよな。たまたま居合わせる確率はとことん低い。
だったら会いに行くまでだ。
俺はあざみ野駅に着くと、ホームを出て、竜岡のアパートがあるエリアを目指した。
無数の雨粒が降り注いでくる。
俺は傘を差して、雨風をしのいだ。どれだけ天気が荒れていようとも、俺は歩みを止めなかった。竜岡に会いたい。おまえは俺にとってかけがえのない存在だと伝えたい。
竜岡のアパートに到着した。
俺はドアチャイムを鳴らした。部屋の中で物音がして、玄関口に竜岡が現れた。
「虎ノ瀬さん? どうしたの」
「……聞いたよ。ベンチャーに転職しないか、誘われているって」
「ああ、その話か。……入って」
「お邪魔します」
部屋の中に入ったが、俺はローテーブルの前に腰を下ろさなかった。立ったまま竜岡を見つめる。
俺は喉を震わせながら声を絞り出した。
「行かないでほしい。竜岡さんとずっと一緒に仕事がしたい」
「……僕はもう、虎ノ瀬さんの同僚ではいられないよ。虎ノ瀬さんのことをエロい目で見てる、危険な男なんだから」
「……竜岡さん」
「この部屋だって、虎ノ瀬さんと近所になれるから借りたんや。ほら、前に郵送で本貸してくれただろ? 僕、あんたの住所を暗記しとる。引くやろ?」
竜岡が俺を抱きしめた。
「僕に触れられると怖いでしょ? 何をされるか分からないから」
「あったかくて、気持ちいいよ。それに、竜岡さんだって震えてる。怖がってるのはお互い様じゃないか」
「虎ノ瀬さん……。情けなんてかけないでくれる? 僕に抱かれるのは無理でしょ。お願いだから、僕のことを拒んでほしい。そうじゃないと僕、壊れてしまう……」
「よく喋る口だな」
俺は竜岡の唇を奪った。
竜岡の後ろ頭に手を添えて、逃げられないように固定した。竜岡はなかなか舌を絡めようとしなかった。
俺は竜岡の歯列を割って、口内に舌を差し入れた。ちゅくちゅくという音が耳に絡みついてくる。
いつしか竜岡は力を抜いて、俺の舌を受け入れた。
外から聞こえる雨音がかすむほど情熱的な音を立てて、俺たちは互いの唇を貪った。
「好きとしか言えないだろ、この気持ちは」
俺は竜岡を睨みつけた。
「竜岡さんは俺にとって仕事上のライバルだった。それが、頼りになる同僚に変わって、今では……誰よりも幸せにしてやりたい相手だと思ってる」
「虎ノ瀬さん……」
「おまえには俺が必要なんだろ? だったら素直に欲しがれよ。簡単に諦めるなよ。どこかに行くだなんて絶対に言うな」
次から次へと押し寄せてくる感情を捌ききれない。俺と竜岡はベッドにもつれ込んで、ディープキスを交わした。
「あんまり積極的に出られると、理性が焼き切れそうや」
竜岡がようやく笑顔を見せてくれた。俺は喜びを爆発させた。竜岡の腰に抱きつく。
「……俺は、おまえがいないとダメなんだよ」
「虎ノ瀬さんからそんな言葉が聞けるだなんて、夢みたいだ」
「約束してくれるか? どこにも行かないって」
「うん」
俺と竜岡は小指を絡めた。
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