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第2話

 ボードの大会で左腕を骨折した俺は先日退院したものの、まだリハビリに通わなくてはいけない状態で、それを異常に心配した日野が無理やり自分のマンションに俺を拉致したのだ。  俺は自分のアパートに帰りたかったのだが、迎えに来た日野の必死な目を見ていると抗えなかった。  あの大会以来、日野は笑顔の裏にふと陰りのある表情を見せるようになった。  表面上は俺に尽くし、優しく振舞ってくれているけれど、長年付き合っている俺には分る。  日野の心中は、たぶん穏やかではいられない状態なのだ。  一つは、俺への負い目。  日野は、俺が怪我をした理由が自分にあると思い込んでいる。  無論そんなわけはなく、あの事故はただ単に俺の自己責任に他ならないのだが。  それでも、日野は自分を責める。  そういう奴だ。  二つ目は、彼女のこと。  日野は、あの高橋美香という女と婚約をしていると言っていた。  三月には結婚式をあげるのだと。 「…………」  俺の着替えをいそいそと持ってくる日野を見つめながら、俺は右の拳を硬く握った。  分っているのに。  日野の苦悩は、十分に分っているはずなのに。  こんなとき、自分が相手にしてあげられることが思いつかない。  俺が簡単に言った「結婚しないで」という単語は、予想以上に日野を苦しめている。  でも、どうしても取り消せないんだ。  日野の手を離したくないんだ。 「先輩……?」  頭上から憂いを含んだ声が降ってきて、俺は顔を上げた。 「どうしたの、泣きそうな顔してる。腕、痛むんですか」  俺は小さく首を振って否定すると、右手を伸ばして日野を抱き寄せた。 「うわ、……と」  バランスを崩した長身がベッドへなだれ込んできて、二人ともシーツの上に倒れこむ。  顔の上に重なった日野の胸から、トクントクンと生きている証が聞こえてきて、俺は本当に泣きそうになった。 「どうしたんですか、先輩。……蓮見、さん?」  慌てて身体をのけて俺を覗き込む日野に、俺は強引に唇を重ねた。  何度キスをしても。  何度身体を繋げても。  全然足りなくて、全然落ち着かなくて、俺はかすれた声を出した。 「ごめん、日野」 「……なにが?」 「ごめん、ごめん、ごめん……っ」  傷つけてごめん。  苦しめてごめん。  迷惑ばかりかけてごめん。  開放してあげられなくて、ごめん。  お前が、どうしようもなく好きなんだ。  日野はしばらく俺の髪を撫でていたが、やがて小さな声で呟いた。 「なにを謝っているんですか? もしかして、怪我が治ったらやっぱり田舎へ帰るとか言うんですか?」 「な……? 違う」  いきなり突拍子も無い方向へ話がいってしまいそうで、俺は慌てて首を振った。  途端、日野はあからさまにホッとする。  うわ、もう、そんな顔するなよ。  ほんとに……。  ほんとに、愛おしくてどうしようもない。  日野は俺の頬にチュとキスすると、 「じゃあ、なんで? もしかして、ボードを辞めるとか? 今日限り自分のアパートへ帰るとか?」 「違う、違うって。お前の結婚のことだよ!」  俺の言葉に、日野はぱちくりと目を瞬かせた。 「結婚のこと?」 「う、…うん。だってお前、はっきり結婚しないって言ったわけじゃないし、入院中俺がその話題に触れようとするとわざとらしく避けるし……」 「先輩、それはですね」 「いいんだ! あの、その、日野だって会社ぐるみの付き合いだってあるんだろうし、俺は結婚しないでくれって言ったけど、もう式の予定とか迫ってるんだろうし、いきなり婚約解消なんて出来ないんだろうし、……ひ、日野が、……っ。……ひのが、そのほうが幸せになれるんだったら、俺は……、あし、……ひっ……ひっぱりたく、……な……っ、……ぃっ……、……」 「泣きながら何をバカなことを言っているんですか、貴方は」  日野は溜息をつきながら、ベッドを降りた。  どうしよう。  俺がつまらないこと言って涙を我慢できなかったから、呆れられたんだろうか。  これから、あの女のところへ行くんだろうか。 「……………っ、……ぅ……っ、うー」  それでも涙は止まらなくて、俺はシーツの上にボタボタと熱い水滴を落とした。  やばい。  なんだこれ。  日野に「結婚しないで」と縋った日もそうだったけど、俺ってこんなに泣き虫だっただろうか。  恋なんて、愛なんて、結局何も生み出さないって思っていた。  行き着く先は、血の塊なんだって。  だけど、違う。  血の塊じゃなくて、たぶん涙の海なんだ。
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