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第13話

 「三毛くんと会えてラッキーだったな。一人のご飯って味気ないし」  「わかります。作るのも面倒だし」  「専務とご飯食べないの?」  「今日は夕飯いらないみたいで」  女性と腕を組んで歩いているイリヤを思い出してしまう。胸をきゅうと握られたように痛い。  変な顔をしそうになったのでおしぼりで顔を拭って誤魔化した。  「もしかしてパーティーのこと知らないの?」  「パーティー?」  どきりと心臓が跳ねて高田の顔をまじまじとみつめた。  「表向きはホテル関係者の親睦会なんだけど、実際は乱交パーティーだって噂だよ」  以前三毛がパーティーに参加したとき、発情の匂いで溢れていた。単に酒に酔って欲情の制御ができないだけかと思っていたが、そもそもの目的が身体なら納得できる。  「親戚の三毛くんにこんなこと言うのは酷だけど、専務もかなり遊んでる人らしいよ。ま、妾の子だしね」  高田の言葉に奥歯を噛んだ。イリヤがどれだけ努力をしても「妾の子」としてレッテルを貼られてしまう。半額シールのようにイリヤの実際の価値を貶める肩書き。  でもイリヤも悪い。乱交パーティーなんかに参加していたらそう噂されるのは目に見えている。イリヤだって莫迦ではない。  「イリヤさんには恋人がいないんですか?」  「たぶんね。婚約者くらいはいるかもしれないけど」  「……そうですか」  宝条家の長男ともなれば縁談の話は掃いて捨てるほどあるだろう。婚約者がいて当たり前だ。  それなのに「婚約者」というプレートで強く頭を叩かれたような衝撃を受けた。  (さっきの女は婚約者だったのだろうか)  豊満な胸を強調させて、さも自分が勝ち組だといわんばかりの下衆な女だ。それがイリヤの婚約者? 趣味が悪いんじゃないか。  砂糖が焦げついたような匂いを思い出すと胃がムカムカする。気持ち悪くてえずきそうになるのを酒と一緒に飲み込んだ。  それから食事をして、仕事の話や高田の話に相槌を打っていると時間はあっという間に過ぎた。  店の前で別れの挨拶をしていたところ、高田に腕を掴まれてしまう。  わずかに香る砂糖を焦がした匂いに全身がざわついた。  「俺じゃだめ?」  「……なにがですか?」  「俺が三毛くんに好意を寄せてるのわかってるでしょ」  「それは」  掴まれた腕に力が込められ、ギシギシと骨が鳴った。  発情の匂いはどんどん濃くなっていく。再び吐き気がしてきて、口を押えた。胃からせりあがってくるすっぱいものを唾と一緒に飲み込んでも、後から後から続いてきてしまう。  この匂いは嫌な記憶を呼び起こすのだ。  地元にいたときは猫耳を隠すことなく生活していた。周りに受け入れられ、神様のように崇められていた。  だが高校に上がり都心の方へ出ると上京が一変した。  猫耳の三毛をまるで異物でも見るかのような目で見られることが増えたのだ。  見られるだけなら我慢できる。でも耳や尻尾を引っ張られ、毛を刈られたりマタタビを投げつけられたりと嫌がらせが増えた。  我慢していればいずれ飽きるだろうと深く考えないでいたが、ある時、放課後の教室で襲われた。  男二人組に手足を押さえつけられ、服を脱がされそうになった。そのときに嗅いだ焦げ臭い匂いは未だに恐怖を作り出す。  友人たちの助けでどうにか切り抜けられたが、あのとき感じた絶望は忘れられない。  高校を中退し、通信学習で単位を得た。大学も通信で卒業し、一歩も外の世界に触れないまま親のスネを齧るろくでなしになった。  それでも父親と旅館のみんなは温かく見守ってくれた。見捨てず、投げ捨てず、みんなが蝶よ花よと大切にしてくれたのだ。  その想いに応えたい。  だから三毛屋が廃業寸前と聞いて、単身上京したのだ。  どんな理不尽な目に遭ってもめげない。手ぶらで地元に帰れるはずがないのだ。  もうこれ以上落胆させたくない。  すうと息を吐いて嫌な音のする心臓を鎮めた。  「ごめんなさい。高田さんのこと尊敬してますが、そういう風には思えません」  「でも尊敬してくれてるなら脈アリでしょ?」  「高田さんは俺には勿体ない素敵な人なので他の方と幸せになってください」  「そう思ってくれるなら嫌いじゃないってことでしょ? 一回くらい付き合ってよ」  掴まれた腕に力が込められる。高田の目はどんどん濁ったものになり、自分を映していない。  はっきりと断っているのにどういう思考回路をしているのだろうか。  (蹴飛ばして逃げようかな。でもそしたら明日から顔合わせずらくなるし)  一度きりの相手ならなにをしても構わないが、これからも付き合いのある人間だと厄介だ。  腕を引っ張っても抜けられそうにない。一歩踏み込んだ高田に腰を抱かれてしまい、アルコールと発情の匂いで鼻がもげそうだ。  「俺、結構上手いから三毛くんも虜にしてあげるよ」  ぞわりと鳥肌が全身にたった。  なんだこの話聞かないマンは。こんな人だったのか。  尊敬できる先輩だと思っていたのに築き上げてきた信頼関係が崩れていく。  「三毛と高田? なにやってるんだ?」  振り返るといつのまにかイリヤの姿があった。外面の張りつけた笑顔なのになぜか怒っているように見える。腕を組んでいた女性の姿はない。  珍しく髪が乱れているのが目についた。  「いま三毛くんとご飯食べてたんです。二軒目どこにしようかって話してて」  「じゃあどうして腰を抱く必要があるんだ?」  「三毛くんが転んじゃって支えてただけですよ」  「そうなのか?」  イリヤに問われてさっと下を向いた。さっき無視したくせになんでいまになって戻ってくるんだよ。  でもイリヤの顔を見ると背中を支えてもらえたように安心した。ピンと糸を張っていた緊張が緩んで、目が熱くなってくる。  泣きそうになるのを堪えるため喉に力を入れた。  「悪いが三毛はこのあと予定があるんだ。このまま連れて帰る」  「でも専務は帰って来ないって言ってましたよ」  「伝え忘れてただけだ」  表面上は穏やかに会話しているのに二人の間には怒りの匂いがする。  高田はふんと鼻を鳴らせた。  「でもこの界隈にいるってことはパーティーに参加されてたんですよね? もしかして不発だったから三毛くんを相手にしようと思ってます?」  「パーティーはあったけど、高田が思っていることはないよ」  「どうでしょうかね」  不穏な空気が漂っている。嫌な匂いだ。  ちらりと覗くとイリヤはわずかに頰を釣り上げて苛立たしげにしている。図星だったのかもしれない。  じゃああの女性は婚約者だったということだろうか。一晩限りの相手を探していたけど、婚約者がいたから渋々送り、帰りがけに三毛たちを見つけた。  そう筋書きをするとしっくりきてしまう。  (やっぱり高田さんが言っていたことは本当だったんだ)  どうしてか胸が苦しい。引っかかれたように身体の中心がズキズキと痛む。思わず胸を押さえたが当然ながら血は出ていない。  痛むのはもっと身体の中だ。  「三毛」   名前を呼ばれて顔をあげた。  イリヤは怒っているような泣いているような複雑な感情が混ざっている顔をしていた。  どうしてそんな顔をしているのだろう。  考えても正解なんてわかるはずもなく、ただじっとイリヤの顔をみつめた。  「帰ります」  力が弱くなっていたすきをついて高田の腕をするりと逃げ出した。高田ははっとして手を伸ばしてきたが、三毛の方が身のこなしは軽い。  くるりとターンをして避けてイリヤの隣に立つ。  ちらりと見ると目尻をわずかに下げるイリヤと目が合った。思い通りになって嬉しいのだろうか。  「お疲れ様でした」  高田に一礼をして近くに停まっていた車に乗り込んだ。高田が舌打ちしたのが聞こえたが無視をする。  運転席の灰谷はルームミラーで一度こちらを見たきり、なにも口を開かなかった。  マンションに着いて二人きりになると空気の粒子全部に重力があるように重たさが増す。  ネクタイを解くイリヤの長い指をじっと見つめた。  「飯は食べてきたんだよな」  「うん……イリヤは? なにか作る?」  「いや、いい」  歯切れ悪く俯いたイリヤは表情が暗い。いつもの不機嫌そうな顔にどこかほっとしてしまう自分がいる。  「高田とは仲がいいのか?」  「よく面倒を見てくれる」  「シモの世話もか?」  さっと頬が熱くなった。いまなんて言ったんだ、この男は。  「そんなことするわけない!」  「でも高田は乗り気だったじゃないか」  「聞いてたのかよ」  あの会話を聞かれていたなんて。全身の毛が逆立った。  「俺は断ってただろ。それなのに高田さんがしつこくて……」  「あんな気を持たせるような断り方があるかよ」  「じゃあどう言えばよかったの?」  「おまえ……男漁りにきたのか」  「だから違うってば!」  どいつもこいつも人の話を聞いてくれない。違うと言っているのにどういう育ち方をしたらそんな斜め上の考え方ができるんだ。  怒りのマグマが噴火する寸前のように視界が真っ赤になった。  「俺は……っ!」  イリヤの顔が近づいてきて唇に柔らかいものが触れた。それが唇だと気づくまでに数秒かかった。  ぼやけた視界でもイリヤの美しさは変わらない。惚けていると離れた唇がもう一度重なる。  はっと我に返り、イリヤの肩を押した。  「なっ、なにすんだよ!?」  「また今度をいまにしただけだろ」  やっぱりあれはキスをしようとしていたんだと合点がいき、さらに顔の熱が上がる。  「そうだけど……そうじゃなくて、なんでキスなんか……」  ぼそぼそと言うとイリヤにじっと見られた。人形のように美しい胡桃色は三毛の真意を探るように鋭さが増している。  頭がぞわぞわしてきた。また耳が出てきてそうな気配がわかる。  三毛の質問には答えず、再び顔が近づく。押し返しても今度はびくともしない。手加減されていたのだと腹が立つ。  ぐっと体重をかけられて危うくバランスを崩しそうになり、イリヤの背中に腕を回した。  それを合意と受け取ったのか三度目のキスをされた。今度は隙間からぬるりと舌が入ってくる。  熱い粘膜の感触は眠っていた官能を呼び起こそうとまさぐってくる。  好き勝手に咥内を蹂躙されているのに身体は歓喜していた。嫌なのに、嫌じゃない。もっと欲しいと頭の片隅でちらりと意識が芽生える。  自分から舌を差し出そうとした瞬間にぴょこと猫耳が飛び出した。  (マズイ! どうしよう)  舌の動きは大胆になり、歯の裏を撫でられるとぞわりと身体が震えた。  舌が蠢くたびにピクピクと身体を跳ねさせるとイリヤは楽しむかのように吐息を漏らした。甘酸っぱい果実のような香りに理性が持っていかれそうになる。  「ふぅ……んん」  イリヤの手に頬を撫でられ、首から鎖骨、背中と降りていく。  双丘を掴まれそうになり、はっと我に返った。  「嫌だっ!」  渾身の力で肩を押すとイリヤは尻もちをついた。その隙に部屋へと飛び込む。  さっきまで高ぶっていた熱が冷水を浴びせられたように冷えきっているのに心臓だけがどくどくと強く拍動している。  鼓膜の中であのとき言われたことがこだました。  研究施設に送ろうぜ。  耳と尻尾を切ってみよう。  (嫌だ……イリヤにそんな風に思われたくない)  頭から布団を被って丸くなり、鎧をまとった。  引きこもりをしていたときも随分と長いことダンゴムシになっていた。もう二度とやらないと誓ったのにこうも簡単に逆戻りをしてしまう。  「三毛」  イリヤの声に三角耳がぴくりと反応する。鍵を閉め忘れていたことに気づいたが、いまさら布団から出られるはずもない。  じっと耐えているとイリヤは小さな溜息を漏らした。  「そんなに俺とのキスは嫌だったのか」  「……来ないで」  「俺のこと、嫌いなのか」  縋るような声にぶんぶんと頭を振った。  好きだよ。大好きだ。キスしてもらえて嬉しかったんだよ。  そう言いたいのにまだイリヤの熱が残る唇は縫われたように開けない。    (イリヤに嫌われたくないよ)  しばらく黙っていたらイリヤの気配がなくなり、玄関の扉が閉まる音がした。どこか外に出てしまったらしい。  ポロポロと涙は溢れて、一晩中頰を濡らしていた。

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