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第14話

 泣きすぎて目が腫れぼったい。  身体中の水分を出し切ってしまい砂漠よりカラカラだ。  イリヤは一晩経っても帰って来なかった。実家に帰っているのか婚約者のところにでもいるのか。  それを訊く勇気が三毛にはない。  たぶん、というか絶対に猫耳は見られた。気持ち悪かっただろう。キスした相手が猫憑きだとわかり、イリヤはショックを受けたに違いない。  だからこの部屋を出て行くつもりだ。大した荷物はないのでトートバック一つにおさまる。  なにも得られないまま地元に帰り、旅館は廃業。従業員たちを路頭に迷わせて自分も同じ道を歩む未来が容易く描けてしまう。  嫌な考えが蛇のように巻きついて締めつけてくる。心の中で何度も謝った。こんなふがいない自分を見送ってくれた家族のやさしさが深い分、痛みが強い。  でもこのまま帰るのはだめだ。今日は出勤日だ。最後にフロントのみんなに挨拶をしようと出社した。  ホテルに着いてフロントへ向かうといつもと匂いが違う。  スタッフたちに挨拶をしてもすぐそっぽを向かれてしまう。  遅番の人から引き継ぎを受けている間も早く会話を切り上げたい空気をびしびしと感じる。  (大きな失敗しちゃったかな)  昨日の業務に至らない点はなかったはず。でもそう思っているのは三毛だけで、またなにか足を引っ張ってしまったのだろうか。 悶々としながらパソコンでチェックアウトの客を確認していると横から刺すような視線が向けられた。  嫌悪の匂い。高田からだ。  もしかして昨日の告白をふいにしたことを引きずっているのだろうか。そしてフロントスタッフに三毛の不利になることを言い触らしたのかもしれない。そう考えると辻褄が合う。  長年フロントリーダーとして勤めている高田と半月程度の付き合いしかない三毛だったらどちらを信じるかなんて明白だ。  (面倒なことになったな)  これならいっそ高田の好意を受け取っておくべきだったか、と考えイリヤとのキスを思い出して泣きたくなった。  好きな人以外に身体を触れられるなんて嫌だ。高田に自分の身体を好き勝手にされる想像をするだけで気持ちが悪い。  でもここでなにかアクションをするわけにはいかない。  周りの視線に耐えながら淡々と仕事をこなしていると、あっという間にチェックインの時刻になり受付に立つと一人の客が来た。  「いらっしゃいませ、新内様」  「よぅ、また世話になるぜ」  新内は煙草の匂いを纏わせて黄ばんだ歯をにやりと見せた。髪も薄く、恰幅がいい男で毎日泊まりにくるVIP客だ。  だが全室禁煙にも関わらず喫煙をする厄介な客でもあり、従業員たちから嫌われている。普通ならクリーニング代を請求するか出禁にするところだが、取締役つまりイリヤの父親と懇意にしているから無碍にはできない。  フロントにいちゃもんをつけることも多く、クレームも日常茶飯事だ。  だからいつも高田が担当していたが、そっぽを向いてヘルプに来るつもりもないらしい。これも当てつけなのだろう。  諦めてにっこりと笑顔を貼りつけた。  「本日はお二人でご宿泊ですね。変更点やわからない点はございますか?」  「俺が毎日来てるのに莫迦にしてるのか?」  「そんなことございません。なにかあったらすぐご連絡ください。ごゆっくりお過ごしくださいませ」  「あんがとよ」  乱暴にカードキーを受け取ると新内はなぜか部屋には向かわず、ロビーのソファにどかりと座った。  まだ連れの人が来ていないのかもしれない。  過去の宿泊履歴を遡っていると必ず二人で泊まっているようだ。  備考欄には「同行者にピーナッツアレルギーがあり」と記載されている。  新内は屋上のレストランで食事するコースを選んでいる。確かイリヤと食事をしたときピーナッツソースを使った料理が出てきていた。  アレルギーは確認しなければならない。万が一アナフィラキシーショックを起こされたらホテル側の過失になってしまう。  「すいません、抜けます」  一応声をかけてロビーへと走った。新内は落ち着かせない様子で回転扉から入ってくる客を眺めている。  「新内様、同行者様にピーナッツアレルギーがあることでお間違いありませんか? お食事の変更はしましょうか」  「いや、今日はーー」  「いつから私はピーナッツアレルギーになったのかしら」  振り返ると氏家がまるで百戦錬磨の戦士のように腰に手を当て立っていた。ギリッとした表情からは普段のお淑やかな淑女とはかけ離れ過ぎている。  新内との間に挟まれてしまい、二人の顔を見比べていると氏家は忌々し気に新内を睨みつけた。  「この人、私の夫なの」  「……そう、でしたか。気づかずに申し訳ございません」  頭を下げる三毛の横で新内は青ざめている。  「で? 今度の浮気相手はピーナッツアレルギー持ちの若い子かしら。あなたってそういうところがマメよね。わざわざ記載してあげて、随分熱を上げてるようで」  「ち、ちが……これは!」  「次浮気したら別れるって約束、まさか忘れたわけじゃないわよね?」  「浮気なんて滅相もない! 俺にはおまえだけだよ」  「嘘つき!」  縋りつく新内を振り払い、氏家は外に出て行ってしまった。静まり返っていたロビー内の時間がゆっくりと動き出し、喧騒が戻ってくる。  新内は回転扉前まで追いかけたが氏家はすぐにタクシーを拾って飛び乗ってしまった。 トボトボとした足取りで戻ってきた新内の顔は十歳ほど老けこんだようにげっそりとしている。  まさか新内が氏家の旦那だとは思わなかった。苗字が違うし、なにより気品溢れる氏家が新内のような横柄な男を選ぶとは思えなかった。  ちらりと高田を見るとにやついた顔をしている。どうやら知っていたらしい。もしかしてトラブルになることを予見して、三毛に新内の案内を任せたのだろう。  言いたい言葉をぐっと飲み込み、新内の元へ駆け寄った。  「お部屋で休まれますか?」  「おまえの……せいだ。アレルギーの確認なんてするから」  「ですが、必要なことでございます」  「いつもはしないじゃないか。てかなんで今日に限っていつもの男が担当じゃないんだよ。おまえのせいで俺の人生はめちゃくちゃだ!」  いきりたった新内は目を血走らせ、ヤニで黄ばんだ口からすえた匂いがする。条件反射で鼻白んでしまうと、新内はきっと眦をさらに上げた。  「なんだその顔は! まるで汚物を見るような顔をして!!」  「他のお客様もいますから落ち着いてください」  立ち上がった新内は唾を吐き散らしながら迫ってくる。怒りの匂いに背筋ががくがくと震えた。  助けを求めるようにフロントに目を向けると他の従業員たちは心配そうな顔をするだけで誰も助けに来てくれない。高田が笑っているのが見えた。  (振っただけでここまでの仕打ちをしてくるなんて子どもじゃないか)  高田に腹をたてつつも、いまは新内を落ち着かせる方が先だ。  客を怒らせてしまったなら低姿勢でいるしかないだろう。新内の気が済むまで謝り続けて溜飲を下げてもらうしかない。  騒ぎを聞きつけたのか奥からイリヤまで出て来た。状況を確認するため高田から説明を聞いているが、イリヤの顔がどんどん曇っていく。  (失敗した姿なんて見られたくない。これ以上幻滅なんてして欲しくないのに)  恐怖とは違う悲しみがじわじわと侵食してくる。  奮い立たせるようにぎゅっとこぶしを握った。  「こちらの不手際で申し訳ございません。ここだと他のお客様もいらっしゃいますので、お部屋までご案内します」  「どうせいつものヤニ部屋だろ! もっとマシな部屋はないのか! こっちは毎日泊まってやってる上客だぞ」  「そう言われましても」  「宝条に言いつけるぞ!!」  新内の怒鳴り声にロビーが再びしんと静まり返る。顔をタコのように真っ赤にさせた新内はぎゃんぎゃんと喚き散らし、腕を振り回して暴れている。  まるで子どもだ。  自分の思い通りにならないから癇癪を起こして、どうにか願いを通そうとするわがままな大人。  さっきまで湧き上がっていた恐怖が消えていき、謝っているのも莫迦らしくなってきた。  「……あんたがいつも煙草吸うからだろ」  「あ?」  「ここは全室禁煙なのにあんたが勝手に煙草吸うからだ。クリーニング代も出さないくせになにが上客だ」  「お、おまえ……俺は客だぞ」  「客だからってなにをして言い訳じゃない。ルールは守ってもらう。社長の友人だろうが知ったこっちゃないんだよ、こっちは」  ふつふつと怒りが湧いてくる。体温が上がってきて、耳の縁が熱い。  「……その耳はなんだ」  「耳?」  耳を触るがなにもない。だが新内の目は少し上を向いていた。  はっと気づいて頭を触ると猫耳がぴょこんと出ていた。  「こ、これは……」  「おまえ、猫憑きか!?」  慌てて三角耳を押さえたが新内の手に阻まれ、食い入るように見られてしまう。さっきまで静かだったロビーが再び騒ぎだした。  フロントを見るとイリヤは目を大きく開いる。  (見られた。どうしよう)  ここにいる全員に見られるより、イリヤに見られたくない。顔を背けてもイリヤの視線を感じる。  「こんなところに猫憑きとは運がいい。なぁ、おまえ俺のところに来ないか?」  「やだ……離せよ!」  「俺のとことに来たらさっきの暴言はなしにしてやる」  「離せ!」  新内のウインナーみたいな指に腕を掴まれる。恐ろしいほどの力で振りほどけない。  新内に触れられたところから鳥肌が広がってきて、ぎっと犬歯を剥き出した。  「猫憑きがいると商売繁盛するんだろ? ちょうど焼肉店を出店しようと思ってたんだ。俺のところに来い」  腕を引っ張られて出口へと連れて行かれる。足を踏ん張っても絨毯のせいでズルズルと滑ってしまう。  「新内様」  開店扉を阻むようにイリヤが立ち塞がった。まるで執事のように胸に手をあて、笑顔を張りつけている。  だがその顔が作りもののように感情が見えない。  「うちの従業員を連れて行かれては困ります」  「こいつ猫憑きだぞ! おまえ、わかってて匿っていたのか?」  「まさか、とんでもございません」  そう言いながらもイリヤはどこか余裕のある笑みを浮かべた。  「ですが三毛は勤務中です。連れて行かれては困ります」  「なぁおまえは俺を選ぶよな? 俺のところ来ればここの給料の倍は出すぞ!」    イリヤの言葉を無視した新内に顔を近づけられた。その瞳は泥水のように濁っている。  金に目が眩んで現実が見えていない。  「本当に三毛でよろしいのですか? 実家の旅館は廃業寸前だと聞いていますが」  「廃業? 猫憑きがいるのにか?」  新内の質問にイリヤは上品に微笑んだ。  「えぇそうですよ。それでも持ち出したいというならどうぞ、退勤後にお願いします。いまは業務中ですので」  「あ」  イリヤの笑顔の正体がわかってしまった。  いまは勤務中で三毛が抜けたらこれからチェックイン業務に支障がでる。でも退勤後なら好きにしろということなのだろう。  (俺のことなんていらないみたいじゃん)  助けてくれた、と思っていたのは勘違いだった。イリヤにそのつもりはない。  猫憑きは見た目の不気味さから嫌われることもある。イリヤは猫が嫌いなのだ。  じわじわと目頭が熱くなってくる。泣きたくないのに涙が溢れてきそうで、ぎゅっと喉を絞めた。  「そうか! なら仕事が終わったあとでいい。あとで俺の部屋に来い! わかったな?」  新内に顔を覗き込まれた。嫌だ、行きたくない。  実家の旅館のためにここに来た。でもいまはそれだけじゃない。イリヤのそばに少しでもいたいのだ。  例えイリヤに蔑まれても自分の気持ちまで否定したくない。  「お断りします!」  新内は信じられないとばかりに目を丸くした。  「なぜだ? ここよりいい金を出す。なんなら家も買ってやる」  「俺は、自分が進む道を他人に決められたくない」  「だがーー」  「あなたもしつこい男ね」  「……氏家様」  さっき出て行ったはずの氏家がなぜか戻って来た。だがさっきまで持っていなかった紙が気になる。  「三毛ちゃんのことは諦めなさい」  「だがこいつは猫憑きだぞ! そうすれば俺も安泰だ。だから離婚もしなくていいだろ?」  「なにを言ってるのよ」  ふんと鼻を鳴らした氏家の瞳は氷点下に下がっている。  「私がいてもあなた、なにも成せなかったじゃない。猫憑きがいようがいまいが、あなたは経営者としての器はないわ」  「どういう意味だ?」  「もうこの話はおしまい。部屋に案内してちょうだい。そこでこれにサインして」  新内の前に突き出された紙には離婚届と書かれている。さっと新内の顔色が土色になった。  「待って、待ってくれ」  「待ちません。騒いでごめんなさいね。部屋をお願い」  「かしこまりました」  ドアマンに連れられて二人はエレベーターに乗り込んでいった。  その後ろ姿を見送りどっと疲れが重石となって肩にのしかかる。  「三毛……」  ぴくりと耳が音を拾う。イリヤの呼吸音も心拍音も聞こえてきそうだ。  振り返るのが怖い。どんな目で見られるのか容易く想像できてしまう。  やさしくしてくれたのもただの善意からだ。もしかして三毛屋のことで同情を買ってしまったのかもしれない。  スーツの裾を皺になるくらい握った。  「お騒がせしてすいません。早めに上がらせていただきます。荷物はすべて処分してください……お世話になりました」  「三毛!」  イリヤの顔が見られない。下を向きながら裏口へと走った。走るたびに耳が揺れる。細かな音を拾う。ロビーではまだざわめきが広がり始めている。高田が舌打ちをしている。  (もう嫌だ。こんなところにいたくない)  涙がとめどなく溢れてくる。バックヤードですれ違う従業員たちに耳を見られて小さな悲鳴を上げられた。  自分は不気味で気味が悪い猫憑きなのだ。商売繁盛だともてはやされても自分にはその才がない得体のしれない存在。  ロッカーで着替えてスーツはそのままいれておいた。フードを目深にかぶり、カーゴパンツに履き替えると尻尾がするりと動く。  (荷物、まとめておいてよかったな)  まさかこんな最悪な状況になるとは思っていなかったけれど。  そのまま横浜駅に向かって新幹線に飛び乗った。

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