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第16話
外の騒がしさに目が覚めた。
いつの間にか女将の姿もなく、部屋のカーテンは開けられていた。窓の隙間から夏のじめっとした空気が入ってきている。
『本当にあの有名人がこんな僻地に来たのか?』
『らしいぜ。とりあえず見に行ってみよう』
従業員の休憩室がある一階ではざわざわと人の声がする。多すぎて全部は聞き取れなかったがどうやら芸能人がお忍びで宿泊に来るらしい。
こんなアクセスの悪いところに来るなんてよっぽどの変人か暇人か温泉好きの変わった人なのだろう。
どうでもいいと再び布団を被った。
喧騒に紛れ、階段をのぼってくる軽い足取りが聞こえる。また女将が食事を運びに来たのかもしれない。
ぎゅっと布団を強く握った。
『丞ちゃん、開けるわよ』
いつもは勝手に部屋に入ってこない女将が三毛の了承なしに襖を開けた。息も上がっているからなにか緊急事態なのかもしれない。
布団の隙間から目だけだすと、女将は頬を真っ赤にさせていた。
「丞ちゃんに会いたいって人が来たの」
「……誰?」
自分を訪ねてくる人なんているだろうか。地元の友人たちだろうかと思ったが、今日は平日だからみんな仕事だ。まさか、と新内の顔が浮かびぞっと背筋に冷たいものが伝う。
まだ性懲りもなく誘われたらどうしよう。あんな男のところに行くなんて御免だ。
「嫌だ。あんな汚い人のところに行かない」
「違う、違う。すっごく美形な方」
「美人?」
そんな知り合いいただろうか。
「芸能人も顔負けの人。いいから来て頂戴」
布団の中に手を突っ込まれ、大きなカブのようにぽんと布団から出された。
自宅と旅館は歩いて五分ほどの距離にある。
その間に慌ててフードを被って耳を隠し、尻尾をハーフパンツの中に入れた。
旅館のロータリーには真っ黒なロールスロイスが停まっている。埃一つないピカピカに磨き上げられていて夏の陽光を反射させていた。
中に入ると従業員総出で出迎えているようだ。その中心にやけに背の高い男の頭が見える。
胡桃色で艶のある髪にどきりと心臓が跳ねる。
嗅ぎなれた匂いに鼻がひくひくと反応した。
尻尾がズボンの中で左右に揺れている。
男は顔をあげてこちらを見た。不機嫌を隠そうともせず眉を寄せている。
「イリヤ……」
「遅い。俺を待たせるとはいい度胸だな」
「なんで、ここに」
久しぶりに声を発するせいか喉が乾燥していてうまく声が出ない。カラカラの声が聞こえづらかったのかイリヤは「うん?」と首を傾げた。
女将に背中を押されてイリヤの隣に並ばされた。周りには囲うように従業員たちと父親が揃っている。
なにがなんだかわからず、キョロキョロと周りを見渡すと父親は咳払いをした。
「おまえ、シュペルユールさんのところで世話になっていたのか」
「そうだけど」
「なんでそれを言わない!? しかもかなり迷惑をかけたそうじゃないか!」
父親の雷に肩が竦む。場を取り直したのはイリヤだった。
「迷惑だなんてとんでもない。三毛くんはしっかり働いてくれましたよ。こちらこそ助かりました」
「本当に愚息が申し訳ない」
あの頑固者の父親が息子ほど年齢の離れているイリヤに謝罪している。不思議な光景に思考がついてこない。
ぼんやりしているとイリヤが不機嫌そうに眉を寄せたのが見えた。限られた人にしか見せない素の表情にどきりとしてしまう。
(嫌っているくせにどうしてここに来るんだよ)
あの日の出来事がいまも色鮮やかに残っている。痛みも匂いもそのとき感じたすべてのものがまだ身体の奥深くに刻まれたままだ。
「……どの面下げて来てんだよ」
しんと静かになる。父親は目を開いてこぶしを振り上げた。ぱんと乾いた音がしたあとに頬が燃えるように熱くなる。
「いい加減にしろ! だいたいおまえは……っ!!」
「少し三毛くんと二人きりで話をしてもいいですか?」
イリヤに肩を抱かれるとふわりと香る匂いに喉がゴロゴロと鳴ってしまう。
はっとした父親はバツが悪そうに頬を掻いた。
「それは……まぁ」
「では失礼しますね」
イリヤに促されて外に出た。旅館の裏側の駐車場には従業員の車しかいない。まだチェックインの時間までは少しある。
大きな岩の上に躊躇いもなく座るイリヤを不思議なものを見るように眺めた。いつも通り高そうなスーツに身を包み、真夏の炎天下でもジャケットを羽織っている。
何十万もするスーツをなんの戸惑いも見せずに岩の上に座るのがおかしい。三毛の吐しゃ物で弁償しろと喚いていたくせに。
「三毛のお父さんは案外過激だな」
「昔からそうだよ。もう慣れたけど」
まだひりつく頬を撫でているとその手にイリヤのものを重ねられた。
間近に迫る胡桃色の瞳をじっと見つめてもイリヤの気持ちがわからない。
「俺がここに来た理由がわからないって顔してるな」
「……わかるわけないじゃん」
あんな汚物を見るような顔してたくせに、と続けられず唾と一緒に飲み込んだ。自分ばかり未練がある。
「もう一度見せてくれないか」
「なんで」
「ちゃんと確かめたいんだ」
「俺は猫憑きだ。黙っててわるかったよ。もう放っておいてくれ」
「ちゃんと見たい」
懇願する声は揶揄っている様子はない。真に迫るような迫力で断る方が悪者になってしまいそうだった。
フードの紐をぎゅっと握る。
「やだ」
「減るものじゃないしいいだろ」
「やだったらやだ!」
子どもみたいに首を振った。
またイリヤに冷めた目で見られたくない。気持ち悪いと思われたくない。
(もう一度同じことされたら今度こそ死にたくなる)
自分が猫憑きとして異形だとは理解している。こんな耳さえなければいいのにと思ったことはある。普通の人間のようになれたらきっと嫌な目に遭う回数はうんと少なかったかもしれない。
でも猫憑きだから得られたこともある。イリヤとの出会いもそうだ。
発情の匂いに酔わなければあのパーティーに参加してもイリヤとは関わらなかっただろう。
三毛にとって猫憑きは離れられない存在なのだ。好きな人に気味悪がられても耳や尻尾を切り落とすなんてできない。
だったらもう二度と視界に入らないところでひっそりと生きているしかないに、どうしてこの男は目の前に来たのだろう。
「嫌がらせのつもりならタチが悪いぞ」
「そんなつもりはない」
「だってそうとしか考えられない。俺の耳を笑いにきたのか? それとも猫憑きなのに商売繁盛できないから莫迦にしに来たのか?」
涙の膜が張り始めてぐっと堪えた。
「フードを取ってくれないか」
「なんだよ、やっぱり笑いにきたのか」
「頼む」
縋るような表情はからかっている様子はない。真剣味を帯びた胡桃色の瞳は瞬きもせずにこちらをじっと見ている。
「……わかったよ」
渋々と紐を解いてフードを取った。外気に触れた三角耳はぶるりと震え、開放感に悦んでいる。
その様子をイリヤは食い入るように見ていた。
「触ってもいいか」
「いいけど」
まるで割れ物に触れるような手つきでイリヤは耳に触れてきた。耳先に触れた指が根元に降りてきて撫でられるとぴくりと肩が跳ねてしまう。
「温かい」
「そりゃ本物だからな」
「ふわふわしている」
「毛並みには自信ある」
そんなこと胸を張る必要ないのにイリヤはそうか、と目を細めた。
「おまえが猫憑きだとは最初から知っていた」
「え、なんで」
「吐いて介抱していたとき、耳と尻尾が出ていたからな」
「……もしかして俺をそばに置いたのはホテルを繁栄させるため?」
それなら理由になる。いくら経営を学びたいと勇んできたが、有名ではない旅館の跡取り息子の面倒をみるのはおかしいと思っていた。
スーツを汚したというのはただの建前だったということだろう。
疑惑が確信に変わる。
ぽろりと涙が溢れる。どうして涙は無限に出てくるのだろう。痛みはなくなってくれないのだろう。
頰を伝う雫が地面に落ちた。
「顔を上げろ」
頬に添えられたまま手は三毛の体温と混じる。こんな縋りたくなる体温をさせているのになんて残酷な男だ。
次から次へと湧き出る涙を止める術がわからない。
イリヤは眉間に小山をつくった。
「泣くな」
「そんなの……無理だよ」
「じゃあ俺をちゃんと見ろ」
手で顎を固定されてしまい、イリヤの方を向けさせられる。睫毛の本数がわかるほど近い。
異国の血が交じる瞳は角度によっては緑っぽくも見える。虹彩が繊細で美しい。
見惚れていると瞼を落としたイリヤはさらに近づいてきて、唇に温かい感触がした。
「好きだ。俺に物怖じしないでぶつかってくるおまえに惚れた」
「……嘘だ」
「わざわざここまで出向いてやって嘘を言いに来るほど俺は暇じゃない」
「じゃあなんで新内と揉めているとき助けてくれなかったの?」
イリヤは気持ち悪がるような素振りだった。どれほどのショックを受けたかこの男はわかっているのだろうか。
「新内様は父の友人だからな。俺の立場上あぁ言うしかない。だが三毛なら新内様の誘いには乗らないだろうと確信していたのもある」
「……俺はイリヤに見捨てられたと思って傷ついたのに」
「それは悪かった」
悪いと思っていない笑顔を睨みつける。どこか勝ち気な表情はイリヤの芯の強さを表していて腹が立つ。でも同時に安心してしまうのもあった。
三毛のことを信用してくれての行動なのだから。
「それでどうして俺に捨てられたと思って傷ついたんだ」
「そっ、そんなの……わかるだろ」
「ちゃんと言葉にしろ。俺は言ったぞ」
好きだと臆面もなくイリヤは言ってくれた。まだ唇には彼の体温が残っているような気がする。
そこから甘い熱がじわじわと広がっていき、顔の中心に熱が集まった。
「俺様でムカつくことも多いけど……好き」
「二言くらい余計だが許してやろう」
イリヤの長い腕が伸びてきて抱きしめられる。大好きな匂いに包まれるとあれほど荒んでいた心が落ち着いてきた。
イリヤの心音と重なり、一体感になれる心地よさに目を瞑った。
ゴロゴロと喉を鳴らしていると頭を撫でてくれた。
「耳、引っ込んだな」
「本当だ。尻尾も」
三ヶ月もの間、ずっと出っぱなしの耳と尻尾は跡形もない。急にどうしたのだろうか。
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