3 / 45

スモーキーミルク【3】

 その日、午前の会議を終えた昼休みに八尋はいつもの喫煙所に向かった。  会社にある何ヶ所かの喫煙所の中でここが一番人が少ない。屋外でビルの間にある狭い場所で、夏は暑いし冬は寒い。喫煙者自体が減っていることもあり、ここで会うのはいつも決まった一人の社員だけだった。 「お疲れ〜」  ビルとビルに挟まれるようにその男は立っていた。 「白駒さん、お疲れ様です……」 「どしたの? 元気ないじゃん」  男の名は大賀峰望(おおがみね のぞむ)。  今は背中を丸めて小さくなっているが、一六九センチの八尋を見下ろすほどの高身長。たぶん一八〇センチは軽く超えている。  今どきの若者らしからぬ染めていない真っ黒な短髪だが、俳優並みの整った容姿で野暮ったさは微塵も感じられない。 「四月で辞令出すって言われて……」 「え、マジで? どこの部署いくの?」 「第一営業部ですが……」 「ん? 今と変わんないじゃん」 「第一の部長、やれって……」 「部長?!」 「はい……」    八尋は火をつけるのも忘れたタバコを握ったまま大賀峰を見た。  大賀峰は現在入社二年目。この四月で三年目に突入する二十四歳。まだまだヒヨッコ。普通ならあり得ない人事だが、この男の場合はあり得るのだ。 「会長の孫ってのも、ホント大変だな……」 「孫だからって早すぎますよ……」  八尋が同情の眼差しを向けると大賀峰は頭を抱えて苦悩のポーズをとる。  多数の関連会社から成る大賀峰グループ。大賀峰の祖父はそのトップであり、父や兄も重役を務めているらしい。当然大賀峰もゆくゆくは経営陣に加わるわけで、現在はこの子会社で武者修行中と言うわけだ。 「僕より営業成績が良い先輩たちなんてゴロゴロいるのに……」  情けない声で泣き言を吐く大賀峰を横目に、八尋はタバコに火をつけ深く吸い少し笑いながら紫煙を吐き出した。 「求められるのはそんな『よく働く足軽』じゃないってことだ。皆、お前を『優秀な将軍』に育てようとしてるんだろ?」  大賀峰は「そうかもしれないですが……」と呟きながらもしょんぼりとしている。  大賀峰はαだ。  そしてαらしく実に優秀。その噂は企画部の八尋の耳にも入ってくる。『優秀な先輩たちがゴロゴロ』なんて言っているがたぶんもう二、三人しかいないだろう。しかし、この喫煙所で会う大賀峰は、一般的にイメージするαとはほど遠く、いつもべそべそと愚痴り、それを八尋がなだめているのが日常だ。自分の前ではただの二十四歳の若者として甘えてくる大賀峰を八尋は可愛がっていた。 「まあ、周りにちゃんと協力求めてさぁ、助けてもらいながらやってけばいいよ。ヘタにプライドだけあるオッサンが部長やるよりうまくいきそうだ」 「そう……ですかね……」 「そうだよ。大賀峰なら心配ないって俺は思うね」  微笑みながら励ましてやると大賀峰の表情が少し軽くなった。 「とりあえず、やるしかないですが……」  大賀峰はタバコをひねり消すと八尋に向き合い、キリッと表情を引き締めて言葉を続けた。 「頑張るんで、ハグ、してもらえませんか」  女子社員達がこっそりファンクラブを作っているほど整った風貌なくせに、母親に甘える小学生のようなお願いをしてきた大賀峰に八尋は吹き出した。  男同士でハグするのはどうかと思う部分もあるが、誰も見てないし大賀峰が甘えたいならいいかと八尋は思った。何より正直に甘えてくる大賀峰が可愛い。 「アハハ! いいよ。ほら」  タバコを消して八尋が手を広げると、大賀峰は言い出した本人のくせに緊張の面持ちでゆっくりと抱きついてきた。  大柄の大賀峰の胸にすっぽりと抱き込まれ、これではハグするというよりハグされている状態だと八尋は思った。さらに大賀峰からいい香りがして、八尋の頸動脈がドクリと脈打った。根本は上流階級でαの大賀峰だ。きっと高いコロンを使っているのだろう。 「よしよし、大賀峰は頑張ってるな」 「……下の名前で……呼んでくださいよ」  大賀峰はさらにきつく抱きしめ、八尋の首筋に顔を埋めてねだってきた。  大賀峰一族が経営する各種関連会社の中では当然『大賀峰』と言う人物は数多いる。もはや苗字では自分だと思えないのだろう。 「はいはい、望くんは偉いねー」  八尋は笑いながら、大賀峰の背中を撫でてやった。  大賀峰に甘えられ大賀峰の高い体温を感じ、八尋は身体の奥が熱く燻ぶるような感覚を感じた。久しぶりの人との触れ合いに、心が弾んでしまっているのだろう。  やがて大賀峰は「ありがとうございました」と小さく呟き、八尋から離れた。  八尋は照れを隠すかのように大賀峰に軽口を叩く。 「あ、給料あがるんだろ? 奢れよ〜」 「後輩にたかるんですか?」 「カバザリアでいいよ。行ったことある? パスタとか四百円くらいでさぁ」 「学生の時一度行きました」 「1回だけ? ハッ! これだからお坊ちゃまは!」  八尋は笑いながら、身体の奥の違和感に気付かないフリをした。  親しい人間に抱きしめられるのは、別に嫌ではない。むしろ友好の証として受け取れる。ただ、大賀峰の体温が思ったより高くて、妙に記憶に残ってしまいそうだった。

ともだちにシェアしよう!