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スモーキーミルク【4】

 喫煙所から自分のデスクに戻った八尋は否定できないくらい身体の熱が増してきていると感じた。 (風邪かなぁ……)  なんとなくだるさも感じ、今日は定時で上がろうと思った時、下腹の奥がドクンと大きく脈打ったのを感じた。 「な……っ」  そして燃えるような熱さが全身を包み、なぜか急激に勃起してきた。 「白駒くん、さっきの会議の件さぁ」  先輩の女性社員、高橋が話しかけてきたが、八尋はハァハァと息を乱し、座っていた椅子から転げ落ちるように床に倒れ込んだ。 「し、白駒くん?!」  それと同時に尻の奥から大量の液体があふれ出てくる。それは下着を通り抜けスラックスまで濡らし始めていると感じたが、もう八尋は自力で動くことができなくなっていた。 「し、白駒くん、ヒート起こしてるよ! Ωだったの?!」 「う、うそ……だっ……」 「誰かっ、救急車ー! αの人は出ていってー!!」  八尋を中心に職場は騒然となった。  朦朧とする意識の中、股だけでなくなぜか胸までじんわりと温かい液体で濡れているのを感じた。それは汗だとは思えない濡れ方だった。 「白駒八尋さん、突発性のヒートですね」  病院のベッドで目を覚ました八尋は医師にそう伝えられた。職場で倒れてから七日が経っていた。 「先生っ、この子ハタチ頃に検査してΩのホルモン出てないって言われたんです。そこからずっとβとして生きてきてて……」  いつの間にか来ていた母親が医師に向かってオロオロと説明する。 「そうですね……何らかのきっかけでホルモンが出るようになったのでしょう。原因はわかりませんが、今こうしてヒートが来たことが現実です。それと……」  ぼんやりと状況確認している八尋に医師が思わぬことを伝えてきた。 「八尋さんはオメガミルクが出る体質のミルキーオメガのようです」 「は?」  その単語を聞いて母と八尋は二人で固まった。 「オメガミルクは男性Ωの乳腺から分泌される母乳に似て非なる液体で……って、ご存知ですよね」 「はい……わかりますが……」  オメガミルクを知らない者などいない。なぜなら頻繁にニュースになっているからだ。  オメガミルクを口にすると安心感や幸福感が得られる。麻薬ほどの中毒性は無く、緩和医療や精神安定剤として使用されている。  そのオメガミルクはαに絶大な効果を発揮する。莫大な財力・権力を有する者が多いαはオメガミルクを出せるΩ、つまりミルキーオメガを多額の資金で囲っている。  オメガミルクのドナーはあくまミルキーオメガ本人の協力の元に行われているが、パートナーとなるαが独占し提供を許さないケースも多く、オメガミルクの価値はどんどん高くなっている。  その為、ミルキーオメガは度々誘拐されたり、暴行される事件が多発しているのが現状だ。 「でも俺もう三十一ですよ……?」  そしてミルキーオメガは十代後半から二十代前半と若いイメージがある。三十代のミルキーオメガなど滑稽だとすら八尋は感じた。 「そうです、先生! この子はそんなに若くないんですよ?」  八尋と同じことを考えていたらしい母親か口を挟んだ。そんな親子二人に諭すように医師が説明を続ける。 「一般的に若いイメージがありますが、概ね四十歳前後まで分泌は続きます。なので白駒さんが出せる期間は十年ほどだと思います」 「十年……」  この身体とどう付き合っていけばいいのかイマイチ実感がなく、八尋は生返事で答えた。 「民間運営の保護施設を紹介しますので、そちらへ入ることをお勧めします。検査と経過観察もありますので、あと五日程は入院していただき、その後ご自宅には戻らず直接施設に向かわれたほうがいいでしょう。引っ越しや職場の退職手続きはご家族が代理で行ってください」 「え、家に戻れないんですか? 会社も……?」  怒涛に与えられた情報の中で、沸き起こる不安。 「そのほうが安全です。白駒さんは職場で倒れましたので、同僚のαの方が白駒さんの体質に勘付いている可能性が高いので危険です」 「じゃ、じゃあ、俺はその施設に十年も閉じ込められるんですか?! 会社も辞めて?!」  途端に生活が激変することを理解し始め八尋は焦った。 「セキュリティが万全なご自宅と、ボディガードを雇える経済力があれば施設に頼らなくても生活できると思いますが……」  八尋は息を詰まらせた。 (ボディガードっていくらで雇えるんだ?)  八尋はごく一般的なサラリーマンであり、実家も同様。地方都市で築三十年の木造一軒家に父母と妹が住んでいる。玄関の鍵は掛けてもどこかの窓は開けっ放しの“セキュリティ”と言う言葉とは無縁の家だ。 「施設のほうが専門ですのでそちらで話を詳しく聞いてみてください。まあ、オメガミルクは貴重ですので、宝くじに当たったようなものですよ」  医師はそう話を終わらせた。 (宝くじじゃなくて、隕石にぶち当たったようなもんだろ……!)  八尋は心の中で悪態をついた。  自分の身体が知らぬ間に変わってしまった現実を受け入れられない。長年「普通」と思い込んできた日常が、一瞬にして崩れ去ったような感覚だった。  九年務めた会社で挨拶もせず辞めることになる。ヒート時に助けてくれた同僚たちに直接礼も言えない。何より八尋の頭に浮かぶのは一人の人物だった。 (大賀峰ともう会えないのか……)  よくよく思えば大賀峰とは喫煙所で会うだけで連絡先の交換もメッセージアプリの登録もしていなかった。  気さくに甘えてくるただの後輩と思いつつも大賀峰はやはり大賀峰一族の一人。あの喫煙所以外で会うのは八尋でも躊躇いがあった。しかし毎日のように会っていたので、それを特段気にもしていなかったのだが。 (もっと飲みにとか誘えば良かった……)  八尋は途端に強い淋しさと後悔を感じていた。

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