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スモーキーミルク【6】
施設に入所して三週間が経とうとしていたある日。
八尋はロビーのソファに座り、スマホで読書をしていた。本当は自室に籠もりたいのだが、週の決まった日の決まった時間にはこのロビーで過ごすように言われている。その理由はVIP客を対象にΩたちの顔を見せて売り込む為だ。
「やあ、最近入ったコだよね」
ツーブロックにブランド物のようなスーツを着た五十代半ばの男が話しかけてきた。自信満々の顔に、人を小馬鹿にしたような雰囲気をまとっている。
「そうですが……」
八尋は愛想無く答えた。
ここに来てから、何人かの客から似たような声をかけられた。誰も彼も、自分の名前も名乗らずに、勝手にこちらの情報を知っている顔をして話しかけてくる。それが、何よりも気持ち悪かった。まるで自分が物で、彼らが棚から商品を選ぶ客であるかのようだ。
「238番でしょ? 写真見たよ」
写真とはあのオメガミルクを売るための人間カタログだ。八尋の不快感が一気に増す。無表情に徹したいと思っていたのに気持ち悪さが顔に出たと自分でもわかった。
「どういったご要件でしょうか」
「いいねぇ、その媚びない感じ」
ズボンのポケットに手を突っ込んだままニヤニヤと見下ろす男を一瞥し、八尋はスマホに視線を戻した。
「ねぇ、ダイレクト、やってないのかい?」
「やりません」
八尋は話しながら無意識にネックガードを触った。久しぶりに着けはじめたのでまだ違和感があるのだ。
「へぇ〜、まだ客を取ってないってことか。益々いいね。君、つい最近ミルクが出るようになったんだって? ネックガードもまだ慣れない感じだねぇ。ぜひ僕が最初の客になりたいな。君なら、三十は出すよ」
スマホを見つめて顔を伏せていたのに男は近づいて下から八尋の顔を覗き込んできた。気持ち悪さに耐えきれなくなり八尋は「失礼します」と小さく断り席を立った。男は八尋の背中にニヤついた言葉を投げてきた。
「ヒート中に呼ぶ顧客リストがあるだろう? そこに僕の名前を載せておいてよ。タイミングが合えば慰めてあげるよ」
八尋は(お前の名前なんぞ知らん)と思いつつ、何も言わずその場を後にした。
ロビーに居ろと言われたが八尋は苛立ち施設内を速歩きで進んだ。すると広い廊下の端の掃き出し窓が一つ開いているのを見つけた。職員が換気か何かの為開けて閉め忘れているのかもしれない。
八尋はそこから外に出た。後で怒られたら『開いてたから行っていい場所だと思った』と言い訳すればいいだろう。
べつに怒られたって構わない、という気持ちが今は強かった。むしろ誰かに咎められることで、自分の怒りや不快感をはっきり形にできる気がした。まるで反抗期の中学生だ。
苛立ちつつも久しぶりの外気は、思わず深呼吸したくなるほど心地よかった。
季節は春真っ盛り。足元にはオオイヌノフグリやヒメオドリコソウが咲いている。憂鬱さを紛らわしてくれる春の風と少しの冒険気分に軽い足取りで建物の周りを歩き回った。
しばらく歩くと少し開け、公園のように整備された場所に出た。通路はレンガが敷かれ、植木や花壇が整備されている。そこのベンチに一人の男が座っていた。その男は俯き深刻そうにスマホを見つめて操作している。
なんとなくよく知る人物に背格好が似ている気がして八尋はその男を凝視した。すると男が顔を上げた。
「大賀峰っ?! やっぱり大賀峰じゃないか!」
「えっ! し、白駒さん?!」
見当が当たり、八尋は嬉しくなって大賀峰に駆け寄った。笑顔で走り寄る八尋を見て、大賀峰は驚きアワアワしていた。
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