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スモーキーミルク【17】
八尋は自分自身のことを繊細とは程遠い人間だと思っていた。
まあ若い頃は多少ナイーブな所もあったと思う。しかし社会人として十年近く働き、良いことも悪いこともそれなりに経験し、多少のことでは動じない。そういう男になっていると思い込んでいた。
寿司屋のトイレで男に絡まれた翌日。
日曜日で望も一日中いるはずなので八尋は朝五時に起き、眠い目を擦りつつ搾乳器を取り出した。
ゴールデンウィーク中も望が家にいる時は、望が寝ているだろう時間帯に起きて処理をしていた。この作業も生活習慣の一部となっていると感じ始めている。
着ていたパジャマを脱ぎ胸を見た。あの男に鷲掴みにされた指の痕がうっすらと残っていた。昨晩風呂場で気付き、一晩で消えてくれないかと期待していたがその手形は図々しく居座っている。
溜め息をつき、搾乳器の器具を胸に着けた途端、ザワワワッと鳥肌が立った。慣れた感触なのに不快感が這い上がってきた。
気にするな気にするな、と自身に言い聞かせ、電源スイッチを入れた。搾乳器が乳首を吸い上げる感触。
『君のこのちっちゃい乳首、僕が初めて吸いたかったのになぁ』
あの男が言った言葉が頭にこだまする。さらに乳首を引っ掻かれた感触も。ぶわっと冷や汗が吹き出した。
(気持ち悪いっ……!)
きっとホワイトフリージア園で撮られたあのカタログの写真を見て言ったのだ。あんな囚人のような写真でも性的な目で見られていたのかと思うと気持ち悪さと合わせて恐怖も感じた。
そしてαとの力の差。
論理的に考えれば、あの出来事は一過性のトラブルだ。直接的な被害はなかった。それなのに身体がざわつく。
一六九センチと長身ではないと自覚はあるが、小柄と言う程でもないと思っている自分の体型。しかしあの男は一八〇以上ありそうな長身で、しかもα。身体能力では敵わないと本能的に感じた。
岩村が間に入ってくれたことで事態は収束したが、一対一ならΩはαに勝てないと見せつけられた気がした。それも恐怖心に繋がっている。
八尋は強烈な不快感に歯を食いしばり搾乳に耐えた。もう良いかと搾乳器に繋がったアルミ袋を確認するといつもの三分の一程度しか溜まってない。
これはストレス反応か? そう思って自己分析しようとするが、思考の奥にあの男の声が忍び込んでくる。
三十一歳の男である自分が、あんな一瞬の出来事でここまで身体に影響を及ぼすなんて、八尋は自分の精神の弱さに驚いた。
理性では割り切れない。八尋の感情のどこかが確かに傷ついていた。
その翌日も状況は同じだった。
望が出勤後にいつもより時間をかけて搾乳してみたが、不快な時間をより長く味わうだけだった。
早く忘れたい。
そう思っているのに上手くいかない上に、あの男のニヤけた顔が蘇り、頭の中に居座り続ける。
このままミルクの量が減ったらそこから得られる収入も減ってしまう。完全に出ないなら通常の生活にも戻れるが中途半端だ。
(ただでさえ望に金銭的に頼っているのに……)
医療用から、顔を出しての個別販売に切り替えたほうが金額はいいのだが、今の八尋には自分が誰かに性的な対象として見られることが恐怖でしかなかった。
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