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スモーキーミルク【19】
五月半ばの土曜日。
午前中は会社へ行っていた望だが、二時過ぎには帰ってきた。
「八尋さん、ドーナツ買ってきました。バルコニーで食べませんか」
「おー! 食べる食べる!」
今日は多歌子が休みなので、八尋は飲み物を用意すべくキッチンへ入り望に尋ねた。
「何飲むー? コーヒー?」
「んー、八尋さんと同じでいいですよ」
そう聞かれて八尋は躊躇いながらも正直に言った。
「俺、温かい麦茶飲むけど……コーヒーが良ければ淹れるよ?」
「麦茶? 珍しいですね」
八尋の答えに興味を示したらしい望がキッチンカウンターから覗き込んでくる。
「あ、うん、多歌子さんが買ってきてくれて。急須で淹れたら結構美味しくてハマってるんだ」
クラフトの紙封筒に入った少し高そうな麦茶を八尋が見せると望は「じゃあ僕もそれで」と答えた。
八尋はドーナツに合うように少し濃い目に淹れた麦茶をマグカップに注ぎバルコニーへと運んだ。
五月晴れの爽やかな空の下、ウッドチェアとセットのテーブルに麦茶を置く。
「ああ、いい香りですね」
「うん、結構いいだろ?」
そろそろ冷たい麦茶が良さそうではあるが、温かい麦茶は香りがグンと立っている。
「フレンチクルーラー、もーらい」
八尋は長い箱に詰められたたくさんのドーナツから一つをつまみ上げ、砂糖でコーティングされた軽い生地を頬張った。久しぶりの油と糖質の味に幸福感が沸く。
望はオールドファッションを取り、紙の上で割りながら口へ運びつつ、タバコに火をつけた。
「いります?」
「……ん、いる」
望が差し出しタバコを一本もらい、さらに火をつけて貰って深く吸った。
(いいんだ。望といる時はチートデイだ)
心の中で言い訳にして、八尋は久しぶりのタバコを味わった。
八尋がタバコを口にするのは五日ぶりだった。
望が八尋のオメガミルクを飲んでいると多歌子がうっかりバラしてしまった日から八尋はタバコを吸っていない。
タバコだけでなく、カフェインを含むコーヒーも、油っぽいスナック菓子や、糖質たっぷりの甘味も控えている。
それは望に自分のミルクを美味しいと思ってほしいと思ってしまったからだ。
望がこれまで口にしてきたオメガミルクはきっと若いΩのものだろう。
望がコスト面で仕方なく八尋を選んでいるならば、パフォーマンス面でそれに釣り合うものを提供出来なければ、望はいずれ別のΩを選ぶかも知れない。
八尋の頭の中には施設で出会った美青年、環が浮かんでいた。三十一歳の自分ではとても敵わないと思った。だからタバコの雑味などミルクに残したくないのだ。
多歌子には何気に『麦茶が飲みたい』とか『ナッツが食べたい』等とお願いをし、嗜好品やオヤツを健康的なものに切り替えていった。タバコも一人の時は全く吸っていない。しかも禁煙が苦にならないのだ。
三十歳を過ぎて久しぶりの恋。しかもこんなにほんわかと自分から想っていることは初めてかもしれない。望の気持ちはわからないが、八尋自身がこの状況に浮かれて楽しんでいるのは確かだった。
でも望にはそんな理由で禁煙しているとは言えないので、望の前ではこれまで通りに過ごすことにした。特にタバコは望との大事なコミュニケーションツールでもある。
「八尋さん、まだたくさんありますよ」
望がドーナツの箱を指し示して勧めてくる。
「じゃ、もう一個」
八尋がピンクのチョコレートが掛けられたクリーム入りのドーナツを頬張ると、望が優しげに微笑み見つめてくる。
(そんな目で見るなよ……期待しちゃうだろ)
八尋は目をそらし、当たり障りない話題を探した。
「あの芝生の下って、どうなってんの? 土入れてるんだよな。深いの?」
「さあ? どうなんでしょうか」
バルコニーというより、ほとんど庭といっていいこの場所。もう完成されたものを買ったようで望もよく知らないようだ。
「もうしっかり庭だもんなぁ。ガーデニングもできちゃいそう」
「八尋さんはガーデニング、やるんですか?」
「いや、実家では親が家庭菜園やってたから手伝ったりはしてたけどな」
「良ければ、好きにしていいですよ」
「そうだなぁ……」
現状引きこもり状態の八尋だ。スマホで育成ゲームをするより実際にガーデニングでもしたほうが健全かもしれない。
考え込む八尋に望がさらに付け加える。
「芝生も剥がしちゃって好きにしていいですよ」
「もったいないだろ。まあ、地植えなら野菜も作れそうだけどな」
「スイカ育てましょうよ。スイカ」
「こんな高級マンションでスイカっておかしいだろ。下の階まで伸びてったら苦情きそう」
「『お裾分けです』って言えば良いんじゃないですか」
「どんなお裾分けだよ」
八尋はケラケラと笑った。
初夏へ向かう心地よい風の中で、望と二人で冗談を言い合って過ごす休日。八尋は実に幸せだと感じた。
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