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スモーキーミルク【26】
高橋と通話を終えてリビングに出ると望が帰ってきていた。
「おかえり。帰ってたのか。気づかなかったよ」
八尋が声を掛けると、気怠そうにスーツのままソファに座っていた望が視線を上げた。
「ほんの五分くらい前です。……誰かと話してたんですか」
「高橋さんだよ、同じ部署の。夕飯は? なんか食べる?」
「夕飯はいいです。……高橋さんて肩くらい髪の女性ですよね。仲良いんですか?」
八尋は望が珍しく話しかけてくれることが嬉しくなった。
冷蔵庫から冷えた麦茶を出しグラス二つに注ぐ。一つを望の前のテーブルに置き、もう一つを持ってさりげなく望の隣に座った。三人掛けの広いソファ。二人で映画を見る時の定位置だ。
「んー、高橋さんは同じチームの先輩だから、雑談もするかな。よくからかわれてるよ」
望のことを八尋の『彼ピッピ』と言っていた事を思い出す。三十代半ばで『ピッピ』を使うのはどうなのだろうか。
八尋は笑いながら冷えた麦茶を飲んだ。望はテーブルのグラスを見つめながらポツリと呟いた。
「……コーヒーも、飲まないんですね」
「ん? コーヒー飲みたい? すぐ淹れられるぞ」
腰を上げると望が八尋の手首を掴んできた。
「いいです。いらないです」
「お、おう……」
八尋は驚き戸惑いながらも浮かせた腰をソファに戻した。望は麦茶を見たまま呟いた。
「何でも、やろうとしなくていいですよ」
八尋の手首は望に掴まれたままだ。目は合わせてくれないが触れられていることに八……させてくれよ。望、最近大変そうだし、俺に出来ることならなんでもするよ」
八尋は真剣だった。真剣に心中 を話したつもりだった。しかし望は八尋の手首を離すとその手で顔を覆い、「ハハッ」と乾いた笑いを響かせた。
「なんでもって」
冷たく突き放したような言い方。なんだか馬鹿にされた気がして腹の底がむっと熱くなった。
「そ、そりゃ、望からしたら今の俺に出来ることなんてたかが知れてるだろうけど……。でもさ! 本当に俺に出来ることならなんでもするぞっ!」
(……望のためなら)
続きの言葉を飲み込みながらも声を荒げて訴えると、望は指の間からちらりと八尋を見て、唐突にその言葉を吐いた。
「じゃあ……ダイレクト、させてください」
耳を疑うその言葉。八尋は固まった。
今八尋が思いつく『ダイレクト』の意味は、望が考えていることと一致しているのだろうか。
『ダイレクト』。
それはホワイトフリージア園で交わされていた単語。ミルキーオメガの乳首を直接客が吸う行為。大抵はそのままセックスになると言われた行為。
八尋に望の意図はわからない。もしかしたらオメガミルクとは無関係な何かかもしれない。だが、八尋の答えは一つだった。どんな内容であっても望の要望なら応えられる。
「い、いいよ」
声が裏返りそうになりながら答えた。
しかし……
「そんなっ……簡単に!」
望は声を絞り出すように呻くと八尋を睨みつけてきた。鋭く射抜くような、だが泣き出しそうな黒い瞳。
望のその表情に八尋が戸惑っていると、突然胸倉を掴まれた。
(殴られるっ?!)
長身の望に掴みかかられ咄嗟に身を竦 ませた。八尋のTシャツを掴んだ望の拳は強い力で八尋の喉元を押し、八尋をソファに押し倒す。
望から激しい怒りを感じて、八尋は回答を間違えたのだと分かった。望は八尋の性を見せられたくないのだと感じていたはずだ。なのに誘導尋問にまんまと乗ってしまった。
「の、望っ……違っ……」
なんとかこの場を取り繕おうと八尋は言い訳を必死に考えた。
その時、胸元でビビビーーッと布を裂く音がして、視線を向けると八尋が着ていたTシャツを望が引き裂いていた。
「……っ!?」
あまりの光景に八尋は息を詰まらせた。
風呂上がりで暑かったのでインナーは着ておらず、黒いTシャツ一枚だった。その生地を望の両手があっさりと横に引き裂き、首元部分だけを残し八尋の胸が剥き出しにされている。
望は八尋にのしかかり、「フーフー」と息を荒げその胸部を見つめてきた。
「の、望……っ」
八尋は望の意図が分からず動揺した。
すると、望がTシャツだったそれから右手を離し、その手をゆっくり八尋の胸に近づけてきた。その手は小刻みに震えながら、八尋の左胸にゆっくりと乗せられた。
「んっ……」
八尋は息を詰めた。
望の大きな手で覆われた自身の胸。指の間から乳首が覗いている。さらに望がググッと指に力を込めた。ミルクが滲み出てくる感触がした。
(ダメだ……気持ち悪いって思われる!)
しかし八尋の気持ちをΩである身体は裏切り、好きなαに触れられていることに悦び、勝手にミルクを滲まさせてきた。握られていない右胸からもだ。
羞恥心と、嫌われる恐怖心が入り混じり、八尋は顔を背け腕で覆い、震える声を出した。
「ご、ごめんっ……」
ミルク出ちゃういやらしい身体でごめん。
お前に欲情しててごめん。
ちゃんと先輩でいられなくてごめん。
そんな色んな感情が入り混じった『ごめん』だった。
すると、望はパッと手を離し、八尋から逃げるようにその身を離した。
「あ、あぁ……僕はっ……!」
八尋が顔を覆っていた腕を退け恐る恐る望を見ると、望は八尋の胸を掴んでいた右手の手首を左手で握り、ぶるぶると震えていた。
「の、望……」
目を見開き困惑し、今にも泣き出しそうなその表情に、八尋は心配になり声を掛け身を起こした。
「す、すみませんっ!」
望は叫ぶように謝ると近くに放置してあった鞄とジャケットを掴み、逃げるようにリビングから出ていこうとする。
「望?!」
「い、今の僕は……八尋さんに何するか分からないので……しばらくどこかで、頭冷やします」
八尋の声に一旦足を止めた望は、背を向けたまま涙声でそう吐き出すとリビングを出て行った。走るような足音の後、玄関扉が開き、ガチャンと閉まる音が廊下から響く。
八尋はソファに座ったままその怒涛の展開を呆然と見つめていた。
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