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マイハニーミルク【2】

 望がタバコを吸い始めたのは大学三年の頃だ。友人が面白半分で勧めてきて試しに口にしたら嵌ってしまい、あれよあれよと吸う量が増えていった。  時代は禁煙。いやむしろ嫌煙だ。  親や兄には眉をひそめられたが二十歳を超えていたので強く禁止はされなかった。望が気弱な部分をタバコで晴らしているとわかっていたのだろう。強く止めて酒に逃げられても困ると思われたのかも知れない。ニコチン中毒とアルコール中毒のどちらがより悪いか、判断はつかないが。  大賀峰家の落ちこぼれα。それが望の自認だ。  やる気が無いわけではない。なんでも頑張ろうとしているつもりだった。でも常に恐怖がつきまとう。 『失敗したらどうしよう』 『“αなのに”とガッカリされたらどうしよう』 『嫌な奴だと思われたらどうしよう』  望はそんなことをいつも考えていた。  大賀峰グループの子会社に就職し、周囲からの大きな期待やプレッシャーで、望のストレスは更に増した。  休憩時間に逃げ込んだガラス張りの喫煙ルーム。しかしそこは望にとっては魔窟だった。  ギラギラとヤル気を漲らせた面々が、コミュ力をフルに発揮し熱い熱い暑苦しい交流をそこで繰り広げていた。  彼らは望が大賀峰家出身であると当然把握しており、お近づきになりたいとフレンドリーに近寄ってくる。広い喫茶スペースに隣接された喫煙コーナーに入っていると、タバコを吸わない者でも副流煙をものともせずブースに入ってきて「大賀峰さん、どう? 慣れた?」などと声をかけられる。  彼らの行動全てを否定するつもりは無い。それが嫌だったら大賀峰グループに入るべきではないのだから。しかし望にもひと息つく時間が欲しかったのだ。  そんな時、社屋の外に人のいない喫煙所を見つけた。たまたま歩いていた廊下で非常扉から掃除のおばちゃんが外に出て行くのを見て、覗いてみたらスタンド式の灰皿が置いてあったのだ。  これは良い場所を発見したと喜んで利用していた二日目の昼休み。 「お疲れ様です」  扉が開くと同時にその覇気のない挨拶が飛んできた。 「あ……お、お疲れ様です」  驚きながらも儀礼的に挨拶を返し、声の方向を見た。望より頭ひとつ分背の低い若い男性社員が胸ポケットからタバコを取り出し火を点けている。 (Ωか……?)  なんとなくそう思った。  一見地味なのだが整った顔をしていて、どことなく色気を感じた。  白い肌と色素の薄い髪が儚い印象を与えるが、肩幅や胸板の厚さは一般的なΩよりしっかりしている気がする。よく見ればネックガードを付けていない。どうやらΩではないようだった。 「新卒?」  望の不躾な視線に気づいたのか、その男が紫煙を吐き出しながらこちらに視線を投げてきた。 「あ……そ、そうです」  切れ長の美しい瞳に見つめられ心臓が跳ねた。焦りつつも答えると男は「ハハッ」と笑った。 「よくここ見つけたな。こんなトコ、誰も来ねぇよ」  整った容姿から予想外に乱暴な口調が飛び出し、望は内心驚いた。そして顔をくしゃりとゆがませて笑う様は実に人間味に溢れ、目が離せなくなった。しかし、望はあることに気付いて「あっ!」と声を上げた。 「す、すみません! 静かなスペースなのにお邪魔してしまって……!」 「あは、違う違う。別に『俺の縄張りだー』とか思ってないから」  知らぬローカルルールがあったのかもと焦る望に、男はパタパタと手を振り苦笑いを浮かべた。 「ここでも六月くらいまでは暑さもギリ耐えられるよ。真夏と真冬は厳しいけど……。上の喫茶コーナー行った? あそこにいる連中、暑苦しくて疲れんだよなぁ〜」 「わ、わかります……!」  あの魔窟に居心地の悪さを感じる者が自分以外にもいるとわかり、望は嬉しくなった。  すると男がふと尋ねてきた。 「部署、どこなの?」 「あ、えと……第一営業部です」 「第一かぁ。あ、俺企画部の白駒八尋」  相手に名乗られてしまったのではしかたない。望はしぶしぶ名乗った。 「大賀峰、望と申します……」  それを聞いて八尋は一瞬目を見張り、それからまたフフッと笑った。 「新人で、第一営業で、大賀峰って……すげぇ大変そうだな」  大抵望が大賀峰だと名乗ると相手はそれを褒め称え、大賀峰家の人間と知り合えたことを喜ぶ。喜ばれても望から得られる利益など大してないのだが。しかし八尋は同情するような憐れむような目を向けてきた。その目に望はなんだか安らぎを感じた。 「恵まれた環境出身だとは自覚してますが、まだまだ戦力になれてませんし、大変だなんて言ってたらダメですよね……」  弱音を吐きたい気持ちをぐっと堪え、前向きになるように言葉を紡ぐ。それでも第一営業部では言えないネガティブさが滲み出る。すると八尋は穏やかに煙を吐き出した。 「会社で一番大変なのは新卒の新入社員だと思うよ」  確かに『大変だね』『頑張ってるね』とは言われる。だが『会社で一番大変』は盛りすぎだと思った。八尋が励ましてくれていると感じつつも苦笑いで望は謙遜の言葉を吐く。 「そんなこと……一番大した仕事しかしてないですし……」 「そ。一番仕事してないし、一番役に立たないし、一番利益を出さない」  歯に衣着せぬ言い方に望は息を詰まらせた。確かに事実だとは思うがそんなにズバズバ言わなくても、と思う。 「でも精神的には一番大変だ」  フフッといたずらっぽい笑顔を向けられドキリとした。 「そう、ですかね」 「ま、心の負担は他人とは比べられないけどな。だから『今この会社の中で自分が一番大変だー!』って思ってていいんだよ」  そんなこと思ってもみなかった。  入社してひと月弱。  全くの戦力外なのに大賀峰家の人間というだけで周りはチヤホヤ。影では何と言われているか考えるだけで恐怖だ。ギリギリの精神状態で少しでも失敗した日は眠れない。 (大変だって思ってても、いいんだ……)  望の心にスコンと何かが落ちた気がした。 「特に第一って皆ギラギラしてんだろ? あそこは肉食系ばっかりだよなぁ〜」 「そ、そうなんですよっ! アクティブ過ぎて、もう……」  思わず大きな声で賛同してしまった望に、八尋は「アハハ」と笑った。  それから望は会社に来るのが楽しみになった。  毎日のようにお昼休みには(くだん)の喫煙スペースへ向かった。やはりあまり知られている場所ではないようで、八尋以外の社員に会うことはなかった。  八尋一人の時間を邪魔してしまっているのではないかと不安にも思ったが、望が通うようになっても八尋は変わらず喫煙所に来てくれた。  七月上旬。望がいつも通り喫煙所を訪れると先に来ていた八尋がノベルティのうちわを渡してきた。会社のキャンペーンで作ったものの余りらしい。 「今日はあちぃな。かろうじてここ日陰だけどさぁ」  片手でタバコをふかしつつパタパタとうちわを仰ぐ八尋。  以前『この喫煙所は六月くらいまでしか暑さに耐えられない』と言っていたが、七月に入ってもこうして来てくれることが望は嬉しかった。  二人でぬるい風を送り合いながらタバコをふかす。 「なあなあ、これわかる?」  八尋がスマホを見せてきた。「なんですか?」と応えつつ覗き込むと数学の図形問題が表示されていた。円と三角形が組み合わさっていて、斜線部分の面積を求める問題だ。 「今朝ネットで流れて来てさぁ。簡単かと思ったんだけど意外と難しくて、ずっとモヤモヤしてんの」  スマホを見る望に頭を寄せるように八尋も覗き込んできた。こんな肩が触れ合うほど至近距離まで八尋が近づいたことは初めてで、望の心臓がドコドコと跳ねだした。 「こことここが同じ長さで、ここが直角だろ? ってことはさぁ」  八尋がタバコを持ったままの右手の人差し指で、図形を指し示し考えを述べる。しかし望は全然内容が頭に入ってこなかった。  七月の暑さで少し汗ばんだ八尋から微かに感じる八尋の匂い。Ωのフェロモンではないのに望にはとても心地よく感じた。 「ああ、わかった! つまり百五十平方センチメートルだろ! なぁ!」  ぼんやりとしていた望に八尋が目を輝かせて振り向いた。まつ毛まで数えられそうな距離感で見つめられ望はさらに動揺した。 「あ、えっと……そ、そうですねっ!」  何も考えていなかったが、大声で八尋の回答に賛同した。望の根拠空っぽな後押しを得て、八尋はスマホで答えを入力し回答ボタンを押す。間髪入れず『ガガーン』と効果音が鳴り画面いっぱいに表示されたのは『不正解』の文字。 「あ……」  望は(しまった!)と焦り後悔した。  八尋は望がαだと既に知っているだろう。  『αなのに?』と周りから落胆されてきた経験がある望だが、八尋にはがっかりされたくなかった。 (どうして自分はいつもこう詰めが甘いんだ!)  自分自身に落胆する望だったが、次の瞬間八尋がケラケラと笑い出し言った。 「二人ともバカじゃん」

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