38 / 45

マイハニーミルク【4】

 その日の午後、望はとある大型ブランドのビジネスセミナーに参加していた。 「皆様、本日はお忙しい中お集まりいただき、」  午後1時半。司会者の声が響きセミナーが始まった。  外資系ホテルの巨大なレセプションホールに五、六百人が集められ、主催者や、ブランドの本国マネージャーなどの挨拶が続く。その英語スピーチにつけられた抑揚の無い同時通訳が会場の眠気を誘っていた。  第一営業部部長となり二ヶ月。望はまわりに助けを求めながらもなんとかやっている。しかし先週は八尋のヒートで一週間も休んでしまい、同僚たちにさらに助けてもらった。セミナーでも寝ている場合ではないのだ。しっかり情報を持って帰らねばならないと思いメモを取りつつ聞いていた時。 「次に、大賀峰グループCEO、大賀峰(はじめ)様からお言葉を頂戴します」  司会者のその言葉に望はハッと顔を上げた。  来賓席からよく知る人物らしき影が立ち上がり、ステージへと上がっていく。望は驚きつつ、『本日のアジェンダ』と書かれた用紙を見た。並べられた業界有名人の中にその名前を見つけた。 「皆さん、こんにちは!」  七十代へと突入したとは思えないよく通る声が会場に響き渡る。『ただ今ご紹介に与りました……』などとお決まりのフレーズで始めないのが実にこの男らしい。眠そうだったオーディエンスが一気に目覚めた気配を感じた。  大賀峰グループのトップ大賀峰肇。  望の実の祖父がそこにいた。  この年代にしては珍しい一八〇センチの長身をハイブランドのスリーピーススーツで包み、白髪も魅力の一つとしてとらえ、品よく後ろへ流している短髪。政治家も真っ青な人を惹きつける演説を続ける肇はまさに誰もが思い浮かべるαの典型のような男だ。 (後で挨拶、行くべきだよな……)  今日ここに望が来ていることは知らないだろうが、肇は多忙でなかなか直接会う機会がない。当然挨拶に行くべきだろうが、少し気が重くなる。  祖父肇を筆頭に、大賀峰一族は望の父や兄、従兄弟たちにもαが多い。そして皆やる気と自信と才能に満ち溢れている。  対して望は気が弱く一族の中で一番αぽくないαなのだ。だから大賀峰家一番のオーラを放つ肇を目の前にすると怖気づいてしまう。しかし肇には感謝してもしきれない恩があるのだ。  四時前にセミナーが終了し、望は肇のもとへ向かった。  たくさんの人に囲まれて挨拶をされている大賀峰グループCEOとその秘書や護衛を遠目に見ながら声を掛けるタイミングをうかがう。すると肇本人と目が合った。 「おー! 望!」  周りを気にすることなく、手を挙げ大声で名を呼んでくる祖父肇。こんな人混みなのによく孫に気づいたものだ。  周りの視線が一斉に自分へと向けられ、気まずさを感じながらも望は肇の元へと駆け寄った。 「お祖父様、お久しぶりです」 「来てたのか!」  望は小心者なので周りの目が気になるが、肇は注目されることに慣れているので全く気にする様子がない。 「ちゃんとした格好するようになったな!」 「あ、ええ……父さんに注意されまして……」  大きな声で言われ恥ずかしさを感じつつ応えた。  部長になってもしばらくは平社員時と同じものを着ていたが、先日実父に見つかり叱られて以来、スリーピーススーツを着用している。 「あの、それで、マンションの資金、援助していただいてありがとうございました」  望はそう伝え頭を下げた。  八尋をオメガの保護施設『ホワイトフリージア園』から引き取る際、望は肇に資金援助を依頼したのだ。  望の言葉に肇はニヤリと笑った。 「おう、八尋くんとは上手くやってるか」  肇の顔が大賀峰グループトップからただの孫を可愛がる祖父へと変わる。 「はい、お陰様で……」  望は顔を上げ改めて礼を述べようとした。その時、肇の背後を横切った一人の男が目に入った。礼の言葉も忘れその男を目で追う。 「……望? どうした?」  突然固まる孫に肇が怪訝そうな目を向けてくる。 「あ……いえ……えっと……」  どうしようか迷い曖昧に答えると肇の喝が飛んできた。 「はっきり言え!」 「は、はいっ!」  肇に促され、望はその中年の男に視線を向けた。肇も望の視線の先を追う。 「あの男……あのツーブロックでストライプのスーツを着てる五十代くらいの……。八尋さんが外出した際に、男子トイレで八尋さんの身体を触った男です」 「はぁ?! 護衛は?!」  望の説明に肇は声のトーンを落としつつも驚き唸った。 「一人付いておりましたが隙を突かれました」 「警察は?」 「八尋さんに大事にしたくないと、もう忘れたいと言われ……」 「それでそのままか。お前はそれで納得しているのか?」  肇が呆れたように望を見る。もちろん納得などしていない。だから男について調べたのだ。  悔しそうに口を噤む望に肇がさらに尋ねる。 「調べたのだろう? 会社と名前は?」  さすが大賀峰家一番のα。孫の行動などお見通しらしい。望は上司に報告する部下のように答えた。 「鴨志田敏夫(かもしだ としお)。五十五歳。グロバリッツ株式会社の執行役員で、オメガ保護施設『ホワイトフリージア園』によく通っています。傍若無人でΩ達の評判も良くないようで」  肇は「グロバリッツか……」と呟くとそのまま鴨志田の元へと歩み出した。 「お、お祖父様……っ」  望も慌てて後を追う。  肇は堂々とした足取りで鴨志田に近付くと、本人ではなく一緒にいた六十代半ばの頭髪の薄い小柄な男に声をかけた。 「石倉社長」 「こ、これは、大賀峰会長っ!」  突然大グループCEOから声を掛けられたグロバリッツ社長の石倉は、驚き動揺しながら肇を見た。 「九州でのプロジェクト、期待しておりますのでぜひ宜しくお願いします」  にこやかに話す肇に石倉は嬉しそうにペコペコと頭を下げる。周りも肇が自分から挨拶をしに行った人物が何者なのか注目していた。  『九州でのプロジェクト』とは来年予定しているキャンペーンのことだろう。望はふんわりとしか知らないが、大賀峰グループCEOが直々に話すほど大きな企画ではない。しかしそんな小さな案件でも肇は把握し、関わる会社と社長の名前まで覚えていたことに望は驚いた。  肇は丁寧に石倉に話続ける。 「それで、我が社は女性やΩの方が安心して過ごせる社会を目指し、様々な取り組みを行っております。ご存知でしょうか」 「え、ええ、もちろんでございます! 弊社も御社を見習いまして、休暇の制度などを見直しておりまして」 「それはご理解いただけて良かった」  肇はにこやかに笑い、そして鴨志田へと視線を向けた。 「彼は……カモシダ君と言ったかな」 「は、はいっ」  突然名を呼ばれ鴨志田が愛想笑いを作り肇に会釈した。 「君はこのプロジェクトには関わらないでくれ」  肇の言葉に石倉と鴨志田は固まった。 「カモシダ君はΩを随分と軽んじているみたいだからね」 「そ、そのようなことはっ!」  鴨志田が慌てて肇に弁解しようとする。 「うちの社員でね、つい最近、三十代でミルキーオメガになった者がいるんだけど、知ってるよね?」  肇のその言葉に鴨志田は真っ青になって固まった。 「うん、分かるみたいで良かったよ。君はそのうちの大事な社員に、本人の承諾なく触ったらしいね?」 「か、鴨志田、君はっ!!」  グロバリッツ社長の石倉は部下のしでかしたことを察し鴨志田と同じく青ざめた。 「その社員、近いうちに大賀峰の一族に入る者なんだ。まあ、そこは今この話に関係ないけどねぇ」  ニヤリとしながら望を見てくる肇。ただの呟きのようでそれは明らかに八尋がただの一社員ではなく、大賀峰家の息がかかっていることを表していた。 「も、申し訳ございませんっ! 鴨志田はプロジェクトには関わらせませんのでっ!!」  石倉が汗をダラダラと流しながら叫び、禿げ上がった頭を下げた。周りの人間はただならぬ気配にチラチラと見てくる。 「そうしていただけると安心です。石倉社長、これはあくまで経営者としての個人的な意見ですが、こういう思考の社員がいると、組織は内側から腐りますよ。早めに対策された方が宜しいかと」  肇は穏やかにそう言うと「それでは」と会釈し会場出口へと向かった。望にはついて来いと小さく手招きしてきて、望はそれに従った。  肇の背中を追いながら歩いていると、背後から「君はクビだっ!!」と怒鳴る声が響いてきた。

ともだちにシェアしよう!