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第6話
ルオンとの再コラボが決まって二週間。
九月に入り、伊織はアルバムのレコーディングが始まっていた。
車で移動する間に仮歌の入ったデモを聴き、メロディーや歌詞を覚えつつスタジオに向かう。
カラオケ以外では歌ったことのないような曲ばかりなので、自然と伊織にも気合いが入っていた。
一部は既にプリプロが終わっているため、スタジオに着いたあとはディレクターと軽く打ち合わせをするだけで、歌録りを始める。
自分を解放して歌うことを知った伊織は今まで以上に楽曲を深く表現できるようになり、ディレクターやその他のスタッフたちも驚くほどレベルの高い歌唱を披露してみせた。
そして、その日のレコーディングが順調に終わって、そろそろスタジオを出ようとしていた時だ。
覚は事務所から電話の着信があったことに気づき、折り返しで電話した。
話を終えた覚は伊織に向き直った。
「ルオンから曲が出来たってメールが来たって」
「もうか?」
「脚本は完成してるって話だったから、それを読んだのかもな。確か事務所にも届いてるはずだから持ってくるか?」
「そうだな。明日にでも頼む」
アルバムのことで忙しくしていたので、伊織はまだ脚本を見ていなかった。わかっているのは切ないラブストーリーということだけだ。
「今すぐ聴けないの?」
慎也が尋ねた。
「また共有サービスにアップしてるから、あとでメールを転送するよ。今日はもう遅いから各自、家で聴いてくるってことで」
「いいね。ラブソングだから、じっくり味わうのもいいよねー」
覚はわざとその場で聴くことを避けた。
覚から見て、伊織はルオンに何か特別な感情を持っている。それは単に才能に惚れたというだけではないような気がするのだ。ルオンとの再コラボを迷ったのもそのせいだろうと覚は思っている。
そして〈解放〉を初めて聴いた時、伊織はかなりの衝撃を受けていた。だから、今度はきっと一人になって聴きたいだろうと配慮したのだ。
覚は伊織を自宅マンションまで送り届けたあとでメールを転送した。
伊織は早く聴きたい気持ちとゆっくりと聴きたい気持ちの間で揺れたが、最終的には後者を選択した。
軽く夜食を取り、シャワーを浴びて、リラックスできる部屋着に着替えてから防音室に入る。
伊織はエアコンの温度を調節すると、スマホとオーディオシステムを無線で繋いで音量を上げておき、メールを開いて曲のURLをクリックした。
それから部屋に置いてあるリクライニングチェアに座り、背もたれを倒して体の力を抜く。
あの時と同じように音楽の再生画面になったので、伊織はまず曲名を見た。
タイトルは〈深海魚〉。
一見すると、すぐにはラブソングと結びつかないようなタイトルだ。けれど、どうしてか心惹かれるものがある。
そっと再生ボタンをタップすると、スピーカーから流れてきたのは優しく澄んだピアノの音だった。
伊織はピアノという選択を意外に思った。きっとアコースティックギターだろうと予想していたからだ。
音楽制作ソフトを使ったのだろうか?
そんな疑問を持ったが、それは数小節、曲を聴いただけでどこかへ消えていった。
ゆったりとしたリズムで奏でられるピアノは柔らかく温かみのある音色で、それなのにどこか儚く寂しげで。
ひとつひとつの音は星のようにキラキラと煌めいているのに、何故だか胸が苦しくなってくる。
静かに始まったイントロのまま、やがて歌が聴こえてきた。それはルオンの声だった。
【あれからどれくらいたったかな
重くなった体は どんどん沈んで
今や海の底
目は見えず 耳も聞こえず
ただ暗闇の中 ふらふらと彷徨うだけの
僕は深海魚】
その歌声に伊織はぎゅうっと胸を絞られた。
艶のあるテノールが憂いを帯び、心の奥深くに眠る琴線を揺らす。
切々と語りかけてくるような声は確かにルオンのものなのに、まるきり別人のようだった。
【本当は夢見ていたんだ
色とりどりの世界 自由に飛ぶこと
そうさ 君のように
この手足 風切り羽に
ただ光を放つ 君の隣にいたかった
無知な雛鳥
僕は深海魚
冷たく暗い海を漂うだけ
閉ざされた世界 独りきりの夜
沈みゆく心 救いなんてない
だから泥の中で しんしんと眠る
ああ 目蓋の奥 痛むよ 涙もない
海の底の静寂
冷たく暗い水が重く淀む
忘れられるだろう 僕のことなど
進んでいた時間が凍りつく
思い出せるのは 僕への笑顔
君は僕の光 君は僕の光
僕だけの 大切な光
いつからだろう
手を伸ばしても届かなくなった
祈っても 羽根は抜け落ちて
飛び立った 僕は真っ逆さま
波間に落ちて 黒い海に溺れた
窒息した体 もがく術もない
今も想うよ
君の輝く蒼色の羽根を
どこまでも高く舞い上がって
凛々しくも優しくさえずる
叶うのなら もう一度 君に会いたい
願い持ち続けても
全て まぼろしさ
僕は深海魚
冷たく暗い海を漂うだけ
閉ざされた世界 独りきりの夜
沈みゆく心 救いなんてない
なのにどうして今 そこに君を感じる
ああ 目蓋の裏 映るよ 淡い光
海の底の静寂
冷たく暗い水がゆらり揺れる
降りてきたのかい 僕を探しに
止まったままの時間が動き出す
来てくれたのかい 僕を迎えに
君は僕の光 君は僕の光
僕だけの 大切な光】
曲はピアノだけの演奏のまま、アウトロへと入った。
途切れ途切れのように続く音は、静かな水面 に小さな雫が落ちるように静謐な響きを広げてゆく。
それはまるで音のない暗闇の世界で仄 かに灯る光のようだ。
こんなにも繊細で美しい曲を聴いたのは初めてかもしれない。
聴き終わった伊織の瞳から、ぽろりと涙が零れ落ちた。
何とも表現し難い余韻が伊織の心いっぱいに満ちている。
ルオンの切ない歌声は、伊織をすっかりと『僕』に感情移入させていた。
哀切を感じさせる曲調だったが、最後に希望を与えてくれたと感じる。
『僕』は『君』と再び会えたのだろうか。
『僕』は深い海の底から、光り輝く世界へと戻れたのだろうか。
確かな答えは示されていない。
だが、だからこそ聴く者の想像力をかき立てるだろう。
好きだとか愛してるとか声高に歌うラブソングは数え切れないほどあるけれど、そういう言葉は一切使われていなかった。
それなのに『僕』が『君』を強く想う気持ちが伝わってくる。
伊織はリピートを選んで曲を再生した。
そして、その心を震わせる音色に身を任せたのだった。
翌日、顔を合わせるなり慎也が飛びついてきた。
「伊織さん!〈深海魚〉すっごい良かったッスよね!!」
「そうだな」
頷くと、慎也が更に言い募ってくる。
「ピアノの音が綺麗で、切ないのに優しさもあって、ルオンの歌なんか別人みたくて、哀愁っていうか悲しいんだけど、それを前面には出さないで抑えてるとこがまた切なくて、でも最後はハッピーエンドになるのかなって思わせてくれて、とにかく良かったッスよね!!」
「そ、そうだな」
勢いに押された伊織だったが、慎也の言いたいことはよくわかった。
「ルオンがあんな曲作れるなんて驚きッスよねー」
「矢神さんが問題ないって言う訳だ」
うんうんと納得する慎也と覚に、伊織も内心で同意する。
やはりルオンは天賦の才の持ち主だ。
その才能に改めて感嘆する。
ラブソングは得意だが、あれほどの曲をしっかりと深く表現できるのか、伊織は少し不安になってきた。
「意外といえばルオン、ちゃんと歌うのが伊織さんってこと考えてくれたんスね」
「は?」
「だってほら、歌詞にあったでしょ。【君の輝く蒼色の羽根を】って。あれ、伊織さんのことでしょ?」
「そういえばそうだな。伊織のメッシュの色とかけてくれたんだよな。思ったよりちゃんとコラボだってこと意識してくれてるのかも」
伊織はぱちりと目を瞬かせた。
それから、ふわっと目元を赤らめた。
言われて初めて気がついて、急に照れくさくなってしまったのだ。
──あのルオンが?
あんなに素っ気ない態度を取った男が、曲を作りながら自分のことを考えてくれていたというのか。
恥ずかしい、のに嬉しい、なんて。
自分の感情なのに戸惑ってしまって、伊織は自分のことがわからなくなった。
だが、嫌な気はしなかった。
もしかしたら会えばまた冷たくされるかもしれないが、たとえそうでも伊織はもう気にならないような気がした。
ルオンが自分をどう思っていようと、自分はルオンの才能、ルオンの作る音楽を愛しているのだ。
その気持ちを歌に込めようと思えた。
歌手として、こんな風に思える相手に出会えたのはとても幸運なことだろう。
その後、〈深海魚〉は映画のプロデューサーや脚本家、映画の劇伴音楽を担当する作曲家からも大絶賛を受けた。
その真の理由がわかったのは脚本を読んでからだ。伊織が忙しい合間を縫って目を通すと、それは盲目の青年が主人公の物語だったのだ。
少年の頃に病気で失明した青年の恋と別れを描いたストーリーだった。
特筆すべきは、映画では最後に青年と元恋人が再会するシーンがあるのだが、その後どうなったかの明確な描写がないことだ。結末は観る人の心に委ねられるということだろう。
ルオンはそれを曲に反映させたのだ。制作側が評価するのは当然のことで、伊織も一層、曲への想いが強くなった。
それからしばらく経った九月下旬、映画の出演者たちの顔合わせが行われたという連絡があった。いよいよ撮影が動き出したのだ。
伊織のプリプロも近づいていたが、その頃になって、やっと編曲されたデモ音源が届いた。編曲もルオンが担当することになっていたのだが、まだ色々と忙しいらしく、それで遅れていたのだろう。
聴いてみるとピアノの他にアコースティックギター、ウッドベース、ドラム、それに弦楽器 が加わっている。ただ、仮歌はルオンではなく仮歌専門の歌手に変わっていた。
曲自体は勿論、非の打ち所がない出来だ。
ピアノだけも良かったが、様々な音が重なり合うことで曲に重厚さが出て、映画という大きなスクリーンで観て聴くと深く感じ入るものがあるだろう。
けれど、ルオンが歌っていないというだけで、伊織は何故か魅力が半減したように感じたのだ。
結局、伊織は最初に送られてきたデモを聴き続けた。歌詞もメロディーも完全に覚えきってからも、疲れて帰った夜は必ず聴いた。そうすると、また明日も頑張ろうと思えるのだ。
自分宛てのファンレターにそう書かれていることは多かったが、伊織はずっとそれがどういう気持ちか実感を持てていなかった。それがやっとわかって、改めて歌の力を感じたものだ。
それから数日、〈深海魚〉のプリプロまであと二日となった日のことだった。
その日は新作アルバムのジャケットと歌詞カードに載せる写真の撮影があり、伊織は終日、撮影スタジオにいた。
曲のイメージごとにあれこれと衣装を替えさせられ、そのたびにメイクも直して、終わった時には伊織は疲労困憊状態になっていた。
そんな伊織を見て覚が気分転換にと、こんなことを言い出したのだ。
「そう言えば、今日から〈深海魚〉の楽器のプリプロが始まってるはずだ。スタジオ近いし行ってみるか?」
「は? 楽器のプリプロって⋯⋯」
「ルオンも来てるだろ。編曲も担当してたからな」
「けど、もうこんな時間だぞ。とっくに終わってんじゃねぇのか」
時計の針は十時を過ぎている。
伊織にとってはそう遅くはないが、スタジオミュージシャンが仕事をしている時間ではないだろう。
ところが、覚は少しだけバツの悪そうな顔をした。
「そういや言ってなかったっけ。今回の楽器、アウトバーストのメンバーも参加することになったんだよ」
「は? 何それ聞いてない!」
眉を吊り上げたのは慎也の方だった。
「だから、忘れてたんだって」
「え、じゃあアウバスのメンバーが来てるってこと!?」
「アウバス?」
「アウトバースト、略してアウバス」
「あ、そう」
「メンバー来てるなら行きたい! サイン欲しい! ね、伊織さん、行こうよ!」
「まあ、そういうことなら⋯⋯」
「よし、じゃあ覚、車出して! 早くしないと終わっちゃうかも!」
「はいはい」
こうして三人はレコーディングスタジオへ向かうこととなったのだった。
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