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第2話 迷子の子猫
「記憶喪失ですね。よくあることですよ、極道の世界じゃ」
村上が鍋の中のパスタをかき混ぜた。
良二は刻んだトマトをニンニクを炒めた油の中に入れ、
「よくあること?」
驚く。
二人は台所でトマト味のスパゲッティを作っていた。
古いが片付いた台所だ。良二は実は料理を作るのが趣味なのだ。
村上もなかなかの腕で、慣れた手つきでパスタを一本つまみ上げると口に入れ、
「完璧です」
とニヤリと笑う。
「よくあることですよ、しょっちゅう殴ったり殴られたりしてますからね。大丈夫ですよ、そのうちすぐに記憶は戻ります。ただ、戻ったら気をつけないと⋯⋯。あの指は間違いなくナイフ遣いの指ですから、殺し屋かもしれません」
「あの男が? 村上さん、ヤクザ映画の見過ぎだよ」
「⋯⋯まあ、確かに」
二人はそっと後ろを見た。
台所には小さな朝食用のテーブルがあって、そこにさっきまで意識がなかった男が座っている。
良二の白いTシャツを着て短パン姿。
さっきからニコニコしながら「お腹すいた!」と繰り返す。
まるで三歳児だ。
「殺し屋なんて、絶対に違うよ」
「そうですね⋯⋯」
「お腹すいた!」
また叫んだ。細面で整った顔。東洋人だけど少しは違う血が入っているのかもしれない。鼻筋が人形のように完璧で大きな目は灰色。笑うと少し目尻が下がる。
⋯⋯可愛い。
思わず良二はそう思ってしまい、ちょっと慌てた。
男はまた「お腹、すいた!」と叫んでニコニコと笑う。
「どうぞ召し上がれ⋯⋯」
村上が湯気が上がるトマトスパゲティの皿を男の前に置く。
良二がフォークを渡すと左手で受けとって嬉しそうな顔をした。
だけど、じっと見つめたまま食べない。
「どうしたんでしょうね、若」
「さあ⋯⋯。あの、スパゲッティは嫌いでしたか?」
聞くと、
「好き」
またニコニコ。
だけど手は出さない。
しばらくすると、皿を見つめながらフォークを舐め始めた。
「美味しいはずだけど⋯⋯」
良二は男の目の前の皿から一塊をクルクルとフォークで巻き取り、食べた。
「うん、美味しいですよ」
それを見ると、男が満足げに大きく頷いた。食べ始める。
村上がボソリと「もしかして、毒見でもして欲しかったのかもしれませんね」と言う。
「毒見? なんで?」
「だからやっぱり、普通の世界の男じゃないんでしょう。あんた、名前は?」
「⋯⋯わからない」とニコニコと首を横に振る。口の中はスパゲティでいっぱいだ。
「意識を失う前に、『レイジ』って言ってたよ」
良二は思い出す。
「あんた、レイジって名前か?」
村上が聞くと、
「レイジ?」
と首を傾げた。
そして「わからない」と食事を続ける。
わからないと言いながらも慌てたり、動揺したりするようすはなかった。
ただご機嫌で笑っている。
食べ終わると、今度はじっと目の前の水が入ったグラスを見つめた。
「これも毒見しろってことかな?」
良二がその水を一口飲んで渡すと、にっこり笑って飲み干した。
それから今度は「眠い⋯⋯」と呟く。
そのまま目を擦りながら客間に歩いていく。
良二たちが顔を見合わせてついていくと、男は布団に潜ってすぐにスヤスヤと寝息を立て始めた。
良二は、
「え?」
言葉も続かない。
何がどうなっているのか全くわからなかった。
村上が白髪を撫で上げて、
「若、これが本当の犬のお巡りさんですね。迷子の子猫ちゃん、拾っちゃいましたね」
苦笑した。
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