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第3話 心優しき男
東京——。
カーテンを開けると一気に朝日が差し込んできた。朝からすでに暑い。古くて小さな日本家屋の庭が見える縁側で、良二は「困ったな」と呟いた。ちょっと荒々しくすら感じさせる男らしいハンサムな顔。だけど視線は優しい。188センチ。プロスポーツ選手なみの体格。白いTシャツとジーンズというラフな格好でもう一度「困ったな」と口では言いながらも、のんびりと大きな伸びをした。
「リアル犬のおまわりさんとか、困るんだけど⋯⋯」
どこかシェパードの子犬のような雰囲気の屈託なく明るい21歳は、制服を着るとなかなかかっこよくキマる東京下町B署の制服警官だった。
実は、もうすぐ出勤時間だったけれど、気になる男がいて出かけられずにいる。後ろの客間を振り返って、
「おはようございます、朝ですけど⋯⋯」
良二は遠慮がちに声をかけた。
客間の布団には男が寝ていた。白く、人形のように整った顔が、軽い寝息を立てている。
「おはようございます」何度か声をかけると、
「⋯⋯あ?」
戸惑った声。すぐには状況がわからないらしい。大きな目を擦りながら男は起き上がると「腹、減った」と無邪気に笑った。テレビのCMで子役がよくするような、あんな完璧な笑顔だ。灰色の瞳が朝日を受けて、しだけ紫がかって見える。
「ああ⋯⋯はい、朝ごはんですね」
良二が、古いけれどきちんと整頓された台所に行くと、小さなあくびをしながらついてくる。良二のTシャツと短パンを着ている。
「味噌汁の具、ワカメと豆腐ですけど、好きですか?」大きな体で小さな台所をキビキビと動きながら聞いた。
「ミソシル?」首を傾げながら椅子に座ると、男は長い足を組む。
「味噌汁、知らないんですか?」
日本語は完璧だけれど、もしかするとやっぱり外国人なのかもしれない。味噌汁で首をかしげる日本人はいないだろうし⋯⋯。でももし外国人だとしても、日本に住んでいたら味噌汁ぐらいは知ってるんじゃないかな⋯⋯。良二は考えながら、甘い卵焼きと味噌汁、ご飯に海苔などを並べていく。
男はまた、昨日の夜と同じようにじっと見つめているだけ。食べない。
「ああ、そうか⋯⋯」
毒見しないと食べないんだっけと、良二はスプーンで全てを少しずつ食べた。男は「うん」と頷いて食べ始める。
「美味しいよ、この黄色いの」
「⋯⋯卵焼きっていうんですよ、それ。何か思いだしましたか? 痛いところとか、ないですか?」
「どうかな...」体を見下ろす。「ないかな。思いだしたことも、なにもない」笑顔で食べ続ける。ご機嫌だ。
「名前はレイジだと思うんですけど」
「じゃあ、レイジでいいよ」とお茶が入った湯気のたつ茶色い湯呑みをじっと見つめる。
スプーンですくって飲んでみせると、レイジは湯呑みに手を伸ばした。
「なんか、あの、レイジさんて、すっごいポジティブですけど、心配にならないんですか? 記憶がないんでしょう?」
「⋯⋯ほんとだね」と肩をすくめた。良二のTシャツが大きすぎるので、首元が開いて骨張った鎖骨がチラリと見える。「坊や、名前は?」
「坊や?」
「⋯⋯学生だろ? ガタイがいいし、スポーツとかやってんの、坊や?」
「社会人です。警官です。それと、坊やじゃなくて、俺の名前は宮人良二(みやじんりょうじ)です」
良二は真面目な口調で訂正した。
「これから仕事に行くんですけど、署で行方不明者リストを調べてきます」
「うん、そうして」
⋯⋯そうして、って軽いなあ。
良二はパンの袋を2つ、イチゴジャムパンとあんぱん、それにカップラーメンをいくつかテーブルに並べると、「夕方には帰りますから」と家を出た。知らない人間を家に置いていくことに不安はあったけれど、貴重品なんか全くない家だ。それに帰宅する前にもしかしたら出ていってくれるかも。そう薄く期待もしていた。
*
この日は夕暮れ時になってもかなり暑かった。
署からの帰り道、バスから降りた良二は商店街に寄った。精悍な顔から首元へじんわりと汗が滲んでいる。文房具店で黄色いノートを買い、それから顔馴染みの八百屋でキャベツとにんじんと甘そうなトマト、肉屋でミンチを買った。メンチカツを作るつもりだ。
大きな体で買い物袋をブラブラさせながら、家の門を入っていく。可愛らしいほど小さな木の門は、開けるたびに軋んだ音を立てた。そろそろ修理が必要だのだ。良二の家はこのあたりでもかなり古い一軒家だった。庭はあるが小ぢんまりしている。あたりは次々にビルに建て替わっていた。良二の家の周辺だけが辛うじて昔ながらの木造住宅が残っている。
「明かりだ」
良二は思わず、すりガラスの玄関の前で呟いた。明かりがついた家に帰るのは本当に久しぶり。少し嬉しい。そして少し寂しい。明かりがついてた家に帰っていた頃を思い出すからだ。良二はもう5年も一人だけで暮らしていた。
玄関の引き戸を開けて、
「ただいま」
と小声で言ってみた。すぐに底抜けに明るい声が、
「おかえり!」
と返ってきた。
朝と同じTシャツに短パン姿のレイジが軽い足取りで廊下を歩いてきて、「腹、減った」と笑う。前髪が乱れて白い額を隠している。「ずっと待ってた、おかえり」と言いながら息がかかるほどそばにくる。笑うと少しだけ下がる大きな目が、すくい上げるように良二を見た。
「ああ⋯⋯はい。すぐに作ります」
まだ居たのかという気持ちに、なぜだかわからないけれど、居てよかったという気持ちがほんの少しだけ混ざった。なんでだろう? 良二は自分の気持ちに首をかしげながら台所に入って、入った瞬間に「しまった」と思った。テーブルの上のパンもカップラーメンも手つかずだ。そうだこの人、毒見が必要だったんだ。
「お腹がすいたでしょう?」
「すいてるに決まってんだろ? はやく作れよ」椅子に座ると偉そうに足を組んだ。
「はい」聞き分けのいい子犬のように、良二はすぐに大きな体に白いエプロンをつけて料理に取りかかる。かなり年季が入ったエプロンは亡くなった母が使っていたもの。古くなっても捨てられないのだ。
「居間で食べましょうか?」
「うん」
夕食は台所ではなく、すぐ横の畳の部屋に運んだ。大きめのちゃぶ台はほとんど骨董レベルの古さ。その丸いちゃぶ台の上に、ミンチカツにたっぷりのキャベツとトマトのざく切り、味噌汁の具は今夜はナスとワカメ、それから商店街の惣菜屋自慢のポテトサラダを並べた。
「毒見しますね」とひと口づつ食べる。レイジはじっと見ている。「どうぞ」と進めると、すぐ勢いよく食べ始めた。かなりお腹がすいていたらしい。
「すいませんでした」良二は謝った。お昼抜きにさせてしまったことが申し訳なかった。
「別にいいよ」とレイジは穏やかに笑った。悪い人には見えない笑顔だった。少々顔立ちが整いすぎているけれど、それ以外はごく普通だ。
「署で行方不明者リストを当たってみましたけど、レイジさんに該当する人物はいませんでした」
「ふうん」と熱々のメンチカツを頬張る。
「それから、先輩の刑事とかにそれとなく記憶喪失について聞いたんですけど、レイジさんみたいなのをエピソード記憶の障害っていって、そんなに珍しくはないみたいです。大抵は少し経つと思い出すらしいです」
「そうなんだ。おいしいね、これ」と2つ目のミンチカツに箸を伸ばす。
「ありがとうございます、メンチカツ、得意なんです」ちょっと照れてから、真顔に戻った。「それでですね、俺、ノートを買ってきたんです。思い出せることをまとめてみませんか? このまま記憶が戻らなきゃ、困るでしょ?」
「困るかな?」
「困りますよ!」
肉汁があふれるメンチカツを食べながら、良二は強く言った。
*
「今日は、何をしてたんですか?」
そう聞きながら黄色いノートを広げる。レイジはまだ食べている。
「寝てた。寝ても寝ても、眠いんだよね」箸を持ったまま小さな欠伸をした。レイジの整った顔は欠伸ぐらいじゃ崩れないレベルだ。
「⋯⋯もしかして乱闘とかして、それで記憶がなくなったのかも」
「へえ」
「へえ、って...。太ももに小さな火傷みたいなのがあるでしょ? それって銃の弾がかすめたあとかもしれないらしいんですけど⋯⋯」
「どこ、これ?」と見下ろし、「わかんないなあ⋯⋯」形のいい眉を顰める。それから「頭、痛い」と湯呑みに手を伸ばした。これも毒見ずみだ。
「大丈夫ですか?」
「うん⋯⋯それで、そのノートに何を書くの?」
「まず、名前はレイジ」
「レイジ⋯⋯」
「左利き」
「ああ、ほんとだ」と自分の手を見る。湯呑みを左手で持っている。
「毒見しないと食べない。どうして食べないのか、わかります?」
「わからない」
「そっか⋯⋯それから、たぶんですけど、外国人」
「なんで?」
「最初に会った時、『ノー・ポリス』って言ってたし⋯⋯そうだ!」
良二はスマホで英語ニュースを探し、レイジに聞かせた。
「これ、わかりますか?」
しばらく英語でニュースを読む男の声を聞き、「わかる」とレイジは頷く。
「アメリカ人かな? イギリスかな?」良二が考えていると、レイジは良二のスマホをいじり、中国語のニュースを流して「これもわかる」とニッコリ。それからスペイン語や良二が聞いたこともない言葉のニュースサイトを慣れた手つきで次々に探しだすと、聞きながら「これもわかるよ」と笑った。6カ国ほど、すべて理解できるらしい。
「すげえや⋯⋯」良二は驚く。「すっごく頭がいいことはわかりました」
レイジは黙って痩せた肩をすくめた。
次に良二は「犯罪者」と書き、横にクエッションマークをつける。
「俺、犯罪者?」
「だって、警察が嫌なんでしょう? 俺、警官だけど⋯⋯」
「警察に行っても何もわかんないんだろ?」
「まあ、たぶん」
「じゃあこのままでいいよ。いつか、思いだす」
「気楽ですね⋯⋯」
「うん、そだね」と、また小さなあくびをした。
良二が洗い物をする間、レイジはちゃぶ台の横でゴロゴロしていた。文字通りゴロゴロで、畳の上を何が面白いのか左右に転がってはひとりで笑っている。台所を片付けて、
「シャワー浴びますか?」
と聞くと、
「いいね!」
レイジはいきなり服を脱ぎだし、あっという間に全裸になった。
*
⋯⋯恥ずかしいとか、思わないのかな? それともそういう文化の人なのかな?
良二は考えながら狭い脱衣所の洗濯機の横の棚に自分のブルーのパジャマを置き、
「ここにタオルと新しいパジャマがありますから」
風呂場の中から、
「うん!」
明るい返事がして、レイジが水滴を全身から滴らせながら出てくる。全裸だ。細く白い体から思わず視線を逸らして、良二が客間に戻り、布団をひいていると、後ろから、
「暑いな」
と声。振り向いて驚いた。まだ、全裸だ。
「パジャマは?」
「俺、たぶん、寝るときは何も着ないと思う」
「⋯⋯俺の家では着てください」
「なんで?」
「なんでって⋯⋯」
良二が言葉に詰まると、レイジは水滴を畳に垂らしながらタンスの前に立ち、
「これ、坊やの親?」
タンスの上の写真立てを見つめた。両親と小学生の良二。それから祖父と中学生の良二。二つだ。
「そうです」と言いながら、良二はレイジの濡れた髪にタオルをかぶせた。「はやく拭いてください!」
「親はどこ? 別のとこ住んでんの?」雑に拭きながら聞いてくる。髪を拭く手つきがどこか不器用だ。
「⋯⋯亡くなりました」とタオルを引っ張って、髪の毛を拭く手助けをした。「そんな拭き方じゃだめですよ」
「へえ。いつ?」とレイジは自分で拭く気をなくしたらしく、良二に任せて写真立てを手に取る。
「両親は俺が小学生の時で、おじいちゃんは高校の時⋯⋯」レイジは良二より10センチほど低い。上から軽く押さえるようにして、レイジの柔らかい黒髪を拭いてやる。
「へえ⋯⋯」
まだ濡れている白い肌は、男とは思えないほど滑らかで傷一つない。ただ、白い太ももだけに小さな火傷のような跡があった。白髪(はくはつ)の若頭の村上が「銃の弾がかすめた跡」と言っていた場所だ。薬塗ったほうがいいかなと思いながら赤い小さな傷を見つめていると、開け放した庭から、激しい猫の鳴き声が聞こえてきた。
「すごい声⋯⋯」と裸のままでレイジが庭先に移動する。ポトポトと畳に落ちる水をタオルで拭きながら良二は後を追った。
「拭いてくださいって、レイジさん!」
「見ろよ」とレイジが指刺す場所には二匹の猫がいた。激しく交尾をしている。
「そうですね」と腰を振る猫を見て、良二はなんだか気まずくなってしまった。じっと猫たちを見つめていたレイジが急に、
「あ?」
自分の体を見下ろした。
「どうしたんですか?」
良二は、太ももの怪我が痛むのかと思って覗きこむ。ギョッとした。レイジのそれがゆっくりと動きだし、硬くなり、ピンと上を向いた。
*
「あれ?」
レイジは笑う。
「あれ、って⋯⋯。あの、えっと、とにかくパジャマ、着て!」
パジャマをまだ濡れているレイジの肩に羽織らせた。
「これ、どうしよう?」
「知りませんよ。自分でなんとかしてください」
「なんとかって?」
「もちろんあれですよ。ほら」と良二は小さな声で、「マスターベーション」と言った。
「マスターベーション?」不思議そうな顔。
「まさかそれも忘れたってことないですよね?」
「まったくわからない。マスターベーションってなに?」
「だから⋯⋯」良二の男っぽいハンサムな顔が真っ赤になる。「そうなった時っていうか、どうしようもない時にほら、自分でそれを擦ったりとかして、なんとかすることですよ」
良二は縁側に座り込んで濡れた床を拭く。裸のレイジがすぐ横に座って、
「これを擦るとどうなるわけ?」
無邪気に聞いてくる。
「もしかして、冗談を言ってますか?」
「ほんとにわかんない」
「じゃあそのままにしといてください。そのうち、元に戻ります」
「ふうん」と自分の体の中心を見つめ、しばらくすると「痛くなってきた」と顔をしかめた。
「え?」良二が顔を上げると、しっかりとエレクトしたそれが間近にある。急いで視線を逸らして「だから、えっと、それを⋯⋯」良二は両手を縁側についた。そして大きなため息。「とにかくもう寝てください⋯⋯。それから布団の中で、それを擦ってください。解決するはずですから⋯⋯」
「へえ、そうなんだ」
「そうです⋯⋯」
良二の声に驚いたのか、猫たちが、最後に甘ったるく激しい鳴き声をミャアーとあげて体を離すと、闇の向こうに消えていった。
*
良二の部屋は客間の隣だった。古い日本の家だ。間にあるのは襖だけ。音はすべて聞こえてくる。
「⋯⋯ア」
甘い声がする。レイジは良二に言われたとおりのことをしているらしい。
「ン⋯⋯」
苦しそうな声もする。
⋯⋯明日、休みでよかった。
そう思いながら、良二は薄い夏布団を頭からかぶる。それでも声は聞こえてくる。眠れない。レイジは声を抑えるつもりはまったくないらしい。
「⋯⋯ン」と辛そうな声が連続したとき、良二は自分の体の変化に気がついた。良二のそれまでもが固くなり始めている。
⋯⋯嘘だろ?
男の喘ぎ声で反応してしまった。ありえない。必死で冷静になろうとする良二の耳に「アン」と今度は可愛らしい声が聞こえた。ビクン、と良二のそれが完全に大きくなった。痛いほどだ。
良二はため息をついて、パジャマの中に手を入れた。さっきレイジに教えたことを自分でもやる。握って、擦る。すぐに気持ちがよくなってきた。隣の部屋からはレイジの喘ぎ声。聞かないように意識を、胸の大きな架空の女の子に向ける。必死で想像する。だけどすぐにその映像は、平らな胸をした痩せた色白の男の裸体に変わってしまう。
良二の頭に、自分自身を激しく擦り上げながら甘い喘ぎ声を出す、白い男の裸体ばかりが浮かんでくる。
「⋯⋯ッ」
イきそうななったとき、
「なあ、坊や⋯⋯」
声がした。
襖が開いて、白い裸体が薄闇に浮かび上がった。
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