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第4話 東京、二人
良二は固まった。
パジャマの中の手もそのままに、布団の上で固まってしまった。
「ど⋯⋯したんですか?」
声がかすれる。
薄闇に浮かび上がる白い体。ゆっくりと動いて良二の横にくると。布団の上にぺたりと座った。全裸のレイジだ。
「あのさ⋯⋯」
「はい⋯⋯」
「布団がさ」
「はい」
「汚れて、眠れない」
「は?」
どうやら果てた後の始末が、上手にできなかったらしい。良二が起きあがろうとすると、レイジは小さな子供のように目を擦りながら、
「俺、眠い」
と布団に入ってくる。さっきまで良二の頭の中で、白い腰をくねらせて喘いでいた体だ。
「ダメですって⋯⋯イッツ!」
後少しでイきそうだった良二のそれ。限界まで鬱血している。痛い。ものすごく痛い。
「どした?」
「なんでもない⋯⋯です」
「ふうん」
レイジは小さなあくびをしながら、良二の股間の膨らみをチラリと見ると、
「擦ったら?」
とのんびりとした声で言う。
「いえ⋯⋯俺はいいです」
「なんで?」
「なんでって⋯⋯とにかく、いいです」
「気持ちいいのに」
呟いて目を閉じた。
「風邪、引きますよ」と薄い夏布団で裸体を覆う。レイジは「暑い」と布団を蹴った。白く艶かしい太ももとその付け根が露わになる。すぐに軽い寝息が聞こえてくる。眠ったようだ。
じっと見つめていたら、なんだか、たまらなくなってきた。布団の上に座ったまま、良二は自分の鬱血した部分に手を伸ばす。そっと手を動かした。最初はゆっくり。徐々に早くなってあっという間にラストまで突っ走る。「⋯⋯ン」と低い声を出して果てた。精液が筋肉質な腹の上に白く散る。良二が大きく息を吐いたとき、
「気持ちよかったろ?」
隣で声。
ギョッとする。
「すっごい気持ちいいよね、マスターベーションってさ」寝言のように呟いて、レイジはすぐにまた寝息を立て始めた。
*
「緑は?」
良二は緑色の縞模様のパジャマを手に取って、レイジに見せた。
「やだ」
と、レイジは首を横に振る。
日曜日の商業施設。男性下着売り場はクーラーが効きすぎていて、白いTシャツとグレイの短パン姿のレイジは、細い腕を擦りながらパジャマが並ぶ売り場をブラブラしている。寒いらしい。さっきから女性客に、
「ほら、あの人って、若手俳優の⋯⋯えっと、誰だっけ?」
などと、誤解を生んでいる。すらりと細く、目鼻立ちがはっきりした顔は信じられないほど小さい。下着売り場の男性モデルのポスターさえも、レイジが横に立つとかすむ。
「シルクがいい」
「高いからダメです」
「じゃあ、これ」
選んだのは白地にピンクの可愛い猫の絵。そのパジャマと数枚のTシャツ、ベージュの短パンを買った。
外は真夏の昼下がり。暑い。夕立を呼びそうな入道雲を見上げながら、レイジが「腹、減った」と呟いた。良二の逞しい首から背中にかけて汗が滲む。レイジは汗をあまりかかない体質なのだろう、白い肌がさらりと乾いている。日差しでレイジの頬が赤くなっている。
「帽子がいりますね」
「いいね、俺、帽子って好きかも」
「帽子で何か思い出しました?」
「帽子が好きっていうのはわかる」
「いい調子ですよ。そうやって思い出していけば、すぐに記憶が戻りますよ」
「だね」
そんな会話をしながら、道沿いの若者向けの衣料店に入る。グレイのキャップを買った。深くかぶると目の大きさが際立って、ちょっと幼くなる。
「どう?」
「似合います」
「だろ? おまえにも買ってやろっか?」
「俺の金です⋯⋯」
「お腹すいた」
いきなりそう言って人差し指を咥えた。
「記憶喪失だけじゃなくて、精神年齢が後退してますよね」
それとも、元からこんな人なんだろうか?
「腹減ったんだから仕方ないだろ。どうにかしろよ」
困った人だ。良二はあたりを見回し、小さなアイスクリーム専門店を見つけた。女子高生が集まっている。「アイス、好きですか?」
「アイス?」
「アイス⋯⋯もしかして、わかりません?」
「わかんない」
良二はバニラとストロベリーの二つの渦巻き状のアイスクリームを買った。女子高生がレイジに「イケメンですね」と話しかけてきて、キャッキャと笑いだす。レイジは黙って、良二の後ろに隠れるようにしてそっぽを向く。
「もしかして、照れてるんですか?」意外だと思って聞くと、
「すっげえ、香水臭い」ときれいな顔をしかめた。確かに女子高生たちは結構強めの香りを漂わせていた。
歩きながら良二は一口ずつ食べ、「毒見しましたよ。どっちがいいですか?」と聞いた。「ピンク」と言ってレイジはストロベリーを選ぶ。眉をよせてちょっとだけ舐め、すぐに「美味いじゃん」と笑った。キャップをかぶってアイスを舐める姿は、なんだか小学生みたいだ。
「アイスのこと、思い出しましたか?」
「ぜんぜん」
「アイスクリームを知らない人間はいないと思うけどな。忘れたのかな⋯⋯」
「さあね」
また人ごとだ。
レイジは不器用な食べ方で、赤い唇のまわりにはピンク色のアイスがタラタラと流れていく。「やべえ」と、小さな舌が忙しく動いてアイスを舐め上げる。ちょっとエロい。そう思ったらドキッとした。慌てて自分のバニラアイスに集中する。
「子供の頃に食べたはずですよ」
「そうかな⋯⋯」
「お父さんとか、お母さんのことも思い出さないんですよね?」
「うん」うなずいて、レイジはアイスに夢中だ。「これ、ほんとすげえ甘い」
「こっちも食べてみますか?」
「うん」
バニラ味を舐めると、レイジの赤い唇に白い液体が垂れた。別の白い物を連想させてもっとエロくなってしまった。良二は咳払いをしてから、「どっちが好きです?」と聞く。
「こっち。ピンクの方」
「苺は覚えてます?」
「うん」
「みかん」
「わかる」
「お母さん」
ちょっと考えて、「わかんねえ」
「ご家族、心配してますよね⋯⋯」良二は凛々しい眉を寄せた。
「まあ、ガキじゃないことは間違いないから、そんなに心配すんなよ」
逆に慰められてしまった。良二は苦笑して甘すぎるほど甘ったるいバニラアイスの残りを一口で食べた。交差点で立ち止まると、左に広がる六本木の高層ビル群と、右の昔ながらの商店街を指さす。
「このあたりに見覚えはないですか?」
「ねえな」
レイジは唇のまわりを指で雑に擦ってから、肩をすくめた。どこか遠くから、雷の音が聞こえ始める。
「夕立がくるかも」
少し足をはやめて商店街へ入ると、
「昨日のマスターベーション、気持ちよかったよな?」
ニコニコしながらレイジが言う。
「声が大きいですよ、レイジさん」
「良二も良かったろ?」
「まあ、それなりに⋯⋯」
「セックスとは違った気持ちよさだ」
「セ⋯⋯」声をひそめて、「セックスのことは覚えてるんですか?」
「相手はわからないけど、ヤった記憶はあるし、意味もわかる」
「そうなんですか⋯⋯」
マスターベーションは忘れて、セックスは覚えている。そんなことってあるのかなと思いながら、肉屋で豚肉を買った。
「夕飯、なに?」
「串揚げって、わかります?」
「わかる。うまそ」
「あの⋯⋯」
「ん?」
「相手は女性ですよね?」
「セックス?」
「声、大きいですよ」
「相手ねえ」とちょっと考え、「女だと思うよ」
「良かった」良二は思わず呟いた。
「なんで?」
「えっと、その⋯⋯」口ごもる。レイジが、
「襲わねえから、安心しろ!」
大きく笑った。
*
激しい夕立がいきなり来た。
雨宿りを求めてか、屋根のある商店街に人が集まってきて、良二たちのまわりが騒がしくなる。良二は魚屋に行き海老を買い、
「海老アレルギーがあるとか、覚えてます?」
後ろを振り返ったとき、レイジがいないことに気がついた。商店街は客でかなり混んでいる。良二は他の客より頭ひとつ背が高い。客たちの頭ごしにレイジの姿を探した。だけど、見つからない。
「レイジさん?」
商店街の端から端まで往復した。それでもいない。どこにもいない。
⋯⋯もしかして。
記憶が戻ったのかもしれない。
エピソード記憶の障害は突然戻ることが多い。そう先輩刑事が言っていた。記憶が戻ると今度は、記憶喪失の時のことを忘れてしまうことも多い。そんなことも言っていた。人間の脳はそういうふうにできているらしい。もしかすると急に記憶が戻ったレイジは、良二のことは忘れてしまって、そのまま家族の元に帰ったのかもしれない。
「ちゃんと家に帰ったなら、それが一番いいけど」
レイジのために買ったパジャマと服、串揚げの二人分の材料の袋を下げて、良二はもう一度商店街を往復し、それから家に帰った。先に家に帰ったのかもしれないとも思ったけれど、そうではなかった。誰もいない家は暗く静かで、家中の電気をつけてから、良二は小さな台所に行き母の形見の白いエプロンを巻いた。そしてため息をついた。
「串揚げの材料、余るな」
呟きながら、なんとなく二人分の串を作ってしまう。ウズラのたまご、豚肉、ジャガイモ、それに海老。結構な量だ。あとは揚げるだけ。先にシャワーを浴びようかなと考えながら、今日買った衣類の袋を見下ろす。服もパジャマも良二には小さい。
「でも、記憶が戻ったなら良かった」
袋を押し入れに入れて風呂場に向かう。ふと、かすかなサイレンに気がつく。救急車だ。雨は夕立から本降りに変わっている。すっかり暗くなった庭先から聞こえる雨音に重なって、救急車のサイレンが近づいてくる。
「救急車⋯⋯」
まさかと思ったけれど、気になった。もしかしてあの人、また倒れてるってことはないよな? 救急車は近所で止まったらしい。サイレンの音が止んだ。良二は傘を掴んで外へ飛びだした。
*
真夏の暖かい雨が降る。
霧のように細かくて、傘をさしているのにTシャツとジーンズがぐっしょりと湿ってくる。救急車はどこにも見当たらず、良二は大通りを渡って商店街まで歩いた。記憶が戻ったならそれでいいと思いながら歩いた。そろそろ帰ろうかなとも思ったけれどそのまま歩き続けた。
「バカかな、俺」
やっと立ち止まる。シャッターが閉じ、がらんとしている商店街の前だ。傘を閉じて中に入ると、もう一度、端から端まで往復した。レイジの姿はどこにもない。
「バカだな」
苦笑しながら雨の中に戻った。
小さな公園の横を通っているときだった。白っぽく浮かび上がる人影に気がついた。体つきがレイジに似ている。ブランコが一つあるだけの本当に小さな公園。傘もささずに誰かが立っている。
「レイジさん?」
呼びかけた。返事はなく、もう一度大きな声で、
「レイジさん?」
呼んだ。
「ユニバース!」
人影が叫び、一気に雨の中を走ってきた。レイジだ。頭から足元まで全身が濡れている。
「もしかして迷子ですか?」
「迷子だよ」
「俺の家、わかんなかったんですか?」
「わかんねえよ」
「泣いてんですか?」
「泣いてねえよ! 帽子、なくした⋯⋯」
レイジは良二の胸を殴ってきた。避けようと思えば避けられたけれど、良二はそのままじっと殴られるまま立っていた。
「探したんです、俺」
「もっと探せ」
「すいません」
「許さねえ」
「すいません」
「絶対、許さねえ」
レイジは殴るのをやめて、良二の胸に手のひらを押しつけた。「俺の世界には、おまえしかいねえんだから、もっとはやく見つけろ!」
⋯⋯俺の世界?
そういうことか、と良二はわかった。さっきレイジは「俺の世界」と良二を呼んだのだ。マイ・ユニバース。俺の唯一の世界、と。
良二はもう一度「すいません」と謝って、傘をレイジに大きく傾けた。広く逞しい背中が傘からはみ出て濡れていく。
⋯⋯俺だけがあなたの記憶の全てで、だから、あなたの世界には俺だけしかいない。
「俺だけしかいない」
呟いて、震えた。
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