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第5話 東京、雨のち晴

「どうせびしょ濡れだろ?」 「⋯⋯ですね」  良二は傘を閉じた。  真夏の夜の暖かい雨の中を二人で歩く。  隣を歩くレイジは時々、良二の体に華奢な肩をぶつけてくる。なにかを確認するかのように。  ⋯⋯いるよな?  ⋯⋯いますよ。  無言の会話。良二はその都度レイジを見て笑みを浮かべた。レイジは小さな舌打ちで返す。白い顔はまだ不安げ。良二の顔も明るくはなかった。笑みを浮かべはするものの、目が暗い。  ⋯⋯別に好きとかそんなんじゃない。  それは奇妙な感覚だった。不機嫌な顔をして隣を歩く、滅多にないほどきれいな顔をしている男。この男がいなくなると思うと胸が一気に苦しくなってくる。  ⋯⋯俺だけが、この男の世界。  そう思うと甘く妖しいなにかが湧き上がってきた。このまま閉じ込めて誰にも会わせたりしないで、ひっそりと一人だけで愛でていたいような、バカげた気持ちにすらなってくる。出会ってまだ数日。どうしてこんな気持ちになるのかわからない。  ⋯⋯どうしたんだろ、俺。  答えが出る前に家に帰り着いた。暖かい雨でも体は冷える。古びて小さな日本家屋に帰ってきた二人は急いで風呂場に向かった。 「先にどうぞ」と良二が言うと、あっというまに全裸になったレイジが、「めんどくせえじゃん、一緒でいいだろ?」と良二の短パンを下そうとする。 「やめてください!」 「なんで?」  結局、脱がされてしまった。レイジは良二の股間を見ると目を見開いた。 「でけえ⋯⋯」 「見ないでください」  良二は急いでシャツを頭から脱いで洗い場に入る。後ろからレイジが、「よく見せろって、マジででけえなおまえの」と、股間を覗き込んできた。良二はシャワーを勢いよく出した。まだ水だ。 「冷たいだろ!」 「⋯⋯すいません」 「わざとだろ?」 「違いますよ」  熱い湯が出て、白い湯気が上がる。 「そこじゃ湯が届かないだろ、こっちに来い」レイジの細い腕が良二の腕を掴んで引っ張った。良二はレイジの白く滑らかな肌から目を逸らしながら、体を寄せる。熱い湯を浴び続けると、体が一気に温まっていき、気持ちもほぐれる。段々と良二は自分の暗い考えがバカバカしくなってリラックスしてきた。  ⋯⋯きっと、暗い夜道のせいだったんだ。  そう思う。明るい笑顔で、 「レイジさんのも可愛いですね」  冗談も出た。  レイジのペニスはピンク色をしていた。もしかするとマスターベーションのことを忘れているんじゃなくて、本当に知らなかったのかもしれない。そう思うほど全く使った気配がない下腹部だった。レイジは若く見えるけれど、それでも良二よりは年上に違いない。だけどペニスはまるで思春期前の少年の無垢なそれだ。 「おまえのは、マジ、でけえよ」 「そうかな? 普通じゃないかな」と、石鹸を渡そうとしたら手が滑った。 「この白いのどう使うの?」レイジが石鹸を拾い、かがんだままでた「やっぱ、でけえ」と笑う。レイジの顔が良二の股間のすぐ前にあった。 「立ったらもっとデカくなるんだろ?」 「まあ、そうですけど」 「すげえ。俺、見たい」 「バカなこと言ってないで、石鹸で洗ってください」 「どう使うの?」 「⋯⋯もしかして、石鹸がわかりません?」 「わかんない」 「本当ですか?」  良二はレイジの手から石鹸を取ると、手のひらで泡立てて自分の腹を撫でてみせた。 「こうして洗うんですけど⋯⋯本当にわかりません?」 「今、わかった。それよりさ、良二って、腹の筋肉すごいね。鍛えてんの? ジム?」 「ジムはわかるんですね」  本当に変な記憶喪失だ⋯⋯。  レイジは不器用な手つきで石鹸を泡立てると、白い腹から下腹部へと細い指を滑らせる。そのままペニスをいじり始めた。 「なんか、気持ち良くなってきた」とヘラヘラ笑った。 「えっと⋯⋯」良二は視線を泳がせ、「俺、串揚げの途中だったんですよ。先に出ます」と浴室から出ようと動く。石鹸を身体中に塗りつけていたレイジが一歩動いてバランスを崩した。「あっ」と呟いて足を滑らせる。勢いよく腰から落ちそうになった細い体を良二ががっしりと支えた。 「危ないですよ」 「おまえ、ほんとでかい⋯⋯」  良二の腕に支えられながらレイジが股間に手を伸ばしてきて、「でかいだけじゃなくて、固いじゃん」とギュッとペニスを握ってきた。 「ダメですって!」  良二は手を払おうとした。足元にはレイジが落とした石鹸。それを踏んでしまった。勢いよく滑る。そのまま二人で洗い場に倒れ込んだ。古い家だ。風呂場の床は細かいタイルばり。硬いタイルで良二は強かに尻を打った。上にいるレイジは無傷。笑っている。 「大丈夫ですか?」  痛みを堪えて、聞いた。 「おまえ、自分のことを心配しろよ」  笑いながらも握ったペニスは離さない。微妙に動かしてくるので、若い良二の体は徐々に反応してしまう。 「立った?」レイジは嬉しそうだ。倒れた良二の上に乗ったまま、自分の体の石鹸の泡を良二のペニスに撫でつけた。 「泡まみれ⋯⋯」クスクスと赤い唇で笑う。 「怒りますよ」良二はジーンとする尻の痛みに耐えている。 「俺のこと捨てたくせに、じっとしてろ」レイジは新しい遊びに夢中になっている子供のような顔だ。 「捨ててません。あなたが勝手に迷子になったんです」 「迷子とか、言うな」 「だって、迷子は迷子だし⋯⋯ツッ」 「すげえ⋯⋯」  すっかり大きくなった良二のペニス。見つめるレイジの目が輝いている。 「なんかあれだよな、よくさ、男性神の象徴のオブジェとかあるじゃん、そんな感じの完璧なペニスだよな」 「⋯⋯そういう記憶はあるんですね」  ため息をついて、良二は風呂場の天井を見上げた。だけど、レイジが自分の泡がついているペニスを良二のそれに押し付けるようにして擦り始めた時には、 「なにすんですか!」  さすがに大きな声をあげて、白い体を強く押し返した。 「レイジさん、ゲイじゃないんでしょ?」 「ちがう」 「じゃあなんで⋯⋯」 「なんかさ、気持ちよかったから」 「気持ち良くても、ダメです。俺、串揚げ作ってきます」逃げるように浴室を出る。レイジが「泡、ついたままだぜ」と笑った。 * 「串揚げの毒見って、まさか、全部ひと口づつするんですか?」  皿の上には、うずらの卵、ジャガイモ、海老、豚肉の熱々の串揚げが山盛りだ。キャベツは千切りにして、これも大きな皿に山盛り添えた。  レイジは肩をすくめて、 「さあ⋯⋯」  と考え込む。猫の模様の白いパジャマを着ている。ドライヤーの使い方を教えたはずなのに、髪はまだぐっしょりと濡れていて黒く艶めいている。その頭にタオルをかぶせながら、良二は、 「とりあえず、全部の種類を食べてみますね」とレイジの隣に座ってから、それぞれの串を一本ずつ食べた。「どうです? 食べられそうですか?」 「どうかな」レイジはそっと口にウズラの串を運んで齧ると、「食える!」と笑った。白く人形のような顔がニコニコする姿は、いい歳をした男とは思えないほどなんだか可愛い。 「よかった、全部の串を一口ずつ食べなくてすんで」  小皿をレイジの前に置き、「ソース、醤油、それから塩も。好きなのつけてください。これも毒見しましたから。だけどなんで確認しないと食べることができないんでしょうね?」首を傾げた。 「知らねえ」と面倒くさそうにレイジは答える。「おまえが食べる前に食べようとするとさ、気分が悪くなる。なんでだろね?」 「俺に聞かれても⋯⋯。でも変なクセですね」  良二は串揚げをダイナミックにかぶりつきながら、片手ではレイジの髪をタオルで拭いた。 「不器用すぎますよ、今までどうやって生活したんだです? もしかしたら王子様かも...」自分が言った言葉に笑って、「そんなわけはありませんよね」柔らかい黒髪を拭いた。庭から二匹の猫の鳴き声が聞こえてきた。雨は止んだようだ。 「おまえの飼い猫? いっつも黒と白の二匹がいるけど」 「近所の猫ですよ。それぞれ飼い主は違うんですけど、うちの庭がデートの場所らしくて」 「ああ、なるほどね。この間もやってたよね、熱心に。喉、乾いた」 「あ、はい」  良二は渋い日本茶を入れ終わると、りんごと果物ナイフを持ってきた。皮を剥こうとした時にまた猫が激しく鳴く。「痴話喧嘩かな」と庭を見に行き、「もういませんでした」と戻ってきたら、レイジが果物ナイフを手にしていた。左手で器用にクルクルと回している。 「危ないですよ」 「なんかさ⋯⋯」 「はい?」 「なんか、思い出しそう」  良二は白髪の若頭の村上が言っていた「ナイフ使いの殺し屋説」を思い出した。 「そういえば、最初に目を覚ました時、ここに頭が真っ白な人がいたでしょう?」 「いたね」 「あの人が言っていたんですけど、あなたの指にはナイフ使いのような跡があるそうですけど」 「ナイフ使い? なに、それ?」 「えっと⋯⋯」まさか、殺し屋とは言えないで良二は言葉を濁した。  レイジがいきなり、クルクルと指先で回していたナイフをスパッと投げた。弧を描いて飛んでいき、壁に刺さる。 「びっくりした⋯⋯」投げた本人が驚いている。 「これってもしかして」と良二はナイフを抜きながら、「そうですよ、これってもしかすると、レイジさんって、サーカスとかそんなことで働いていたのかも」 「サーカス?」 「そうですよ、ほら、曲芸とか」 「曲芸?」 「なにか思い出しませんか? ナイフに使い慣れているのは間違いないみたいですし」 「思いださない」 「そっか⋯⋯」 「でもまあ、いいや。俺、曲芸ってことにしとく。そんなことより、これが一番美味しいね」とレイジはうずらの串が気に入ったらしい。幸せそうに口に運んだ。 * 「レイジさん、あの⋯⋯」  次の日、朝から照りつける太陽に男らしいハンサムな顔を顰めながら、良二は口籠もる。 「なんだよ?」  縁側に座り込んだレイジはまだ猫模様の白いパジャマ姿だ。爪が伸びたと言うので良二は爪切りを渡した。それを指で弄んでいる。 「言いにくいんですけど、その」 「だったら言うな」  良二はため息をついて、「やるのはいいんですけど、ちゃんとティッシュを使って始末してください」  レイジは昨夜もマスターベーションを楽しんだ。良二はもちろんそれを知っている。薄い襖の向こうからなんとも言えない甘い声が長時間聞こえたし、昨夜もまたその声が良二を興奮させて、良二もまたこっそりと、やったからだ。 「仕方ねえじゃん⋯⋯」レイジがそっぽを向いた。  何もかもが不器用な男だった。濡れた髪を拭くこともできなければ、自分のマスターベーションの後の精液の後始末もできない。シーツにはべっとりと白い液体。出勤前の忙しい朝から良二がシーツを干している理由だ。 「シーツとか大物は休みの日に洗いたいんだけどな」 「遅刻するって言ってなかったけ?」 「あ、そうだ」  慌てて縁側に飛び上がると、ぺたんと座っているレイジを見下ろした。 「家から出ちゃダメですよ。また迷子になったら大変だし」 「出ない。ここにいる」 「いい子ですね」 「ざけんな」 「行ってきます」  ⋯⋯行ってきます。そう言った自分を思い出すたびに、その日の勤務中に何度も良二はニヤけた。5年ぶりに口にした言葉だった。甘ったるく切ない言葉だった。 「行ってきます、か⋯⋯」  昼休みに食堂で自分で作った弁当を食べている時も、また思い出した。パリッとした制服姿。190近い長身によく似合っている。行き来する事務の女性たちや、警官の制服姿の女性たちが、チラチラと視線を投げていくけれど、良二の頭の中は、「あの人、ちゃんと食べてるかな」という心配事だけ。弁当をもう一つ作って置いてきた。  ⋯⋯ちゃんと目の前で食べて毒味もすませたから大丈夫だとは思うけど、食べてるかな⋯⋯そんなことを心配していた。考え込んで箸を持つ手が止まっていると、先輩警官が声をかけてきた。 「お母さん、料理上手だな」 「母じゃないです」 「え? 結婚してたっけ?」 「俺が作りました」 「へえ」と年配の警官は驚く。隣の席の同僚が、「こいつの趣味は料理なんです」と笑った。  良二の仕事はタイムスケジュールがほぼ決まっていて、午前中に1回、午後に2回のパトカーでのパトロール。それ以外は署につめて、住民からの電話の対応にあたったり、書類仕事。よほどの事件でも起こらないと、毎日がそんな感じだった。拳銃はもちろん携帯していたけれど、銃練習以外で撃ったことは一度もない。警官と言っても普通の会社員とあまり変わらない平和な仕事だ。  この日も同じような1日を過ごし、5時になって署を出ると、Tシャツにジーンズの良二はいつものようにバス停に向かった。野生的でハンサムな顔に夕陽が当たる。眩しくて目を細めると、男っぽく少し色気のある横顔になる。  バスを降りると目の前に商店街。今夜は餃子を作るとレイジと約束していた。材料の豚ミンチを肉屋で買い、ニンニクとキャベツを選んでいるとき、八百屋の店先から若い女性が出てきた。良二の幼馴染の笠木麻衣子だ。麻衣子とは高校時代にちょっとだけ付き合っていたことがあった。といってもキス止まり、その先に進む前になんとなく別れた。その麻衣子が、 「久しぶり」  照れた笑顔で声をかけてきた。高校時代はふっくらしていたけれど、だいぶ痩せている。 「痩せすぎ」  良二は笑う。 「きれいになったって言え!」  麻衣子も笑った。 「都会の女って感じになった」 「都会だよ、ここも」 「下町だろ?」 「あのビル見ろって、良くん」と指差す先には六本木のビル群が見える。確かにここも都会の端くれかもしれない。良二は広くたくましい肩をすくめた。麻衣子は渋谷かどこかで働いているはずだった。それを聞くと、 「今は銀座店、ちょっと出世したのよ、あたし」 「よかったね」 「まあね、⋯⋯あのさあ」 「ん?」 「今、彼女いんの?」 「いない」 「じゃあ、また付き合う?」  良二はちょっと考えた。元々嫌いで別れた訳ではなかった。ちょうど良二の祖父が亡くなって色々と忙しくなった時期だった。自分のことで精一杯で真由子のことを考える余裕がなくなってしまってなんとなく別れることになったのだ。 「ね、どう?」  真由子の頬が赤らんでいる。可愛いなと思いながらも、良二は「ごめん」と謝った。 「残念、だめか⋯⋯」 「マジでごめん。これ、2つでいくら?」 「キャベツとニンニク? ⋯⋯三万円」  ちょっと涙ぐんで真由子が笑う。 *  玄関を開けようとしたとき、後ろから声がかかった。 「若!」  元は古い歴史のある極道組織であり、今では手広くグループ会社を展開している宮人組の若頭、村上だ。真っ白な頭をしているがまだ40歳。無表情だと少し不気味な目つきの男だったけれど、今は満面の笑み。笑いジワの多い、人好きのするハンサムな男だ。 「村上さん、怪我?」  村上は手首に白い包帯を巻いていた。 「ちょっと色々とありましてね」  村上が「色々と」と言葉を濁すときは、裏社会のトラブル絡みだ。良二はそれ以上は聞かないで、「大丈夫ですか?」とだけ聞いた。 「大したことはありません。それより、今夜はなんですか? 手伝いますよ」 「ちょうど良かった。餃子、包むの手伝って」 「餃子ですか、いいですね! ビール、ありますか?」 「あるよ」  笑いながら家に入ると、「ただいま」と良二は声をかける。 「誰に声をかけたんですか⋯⋯」  村上が首を傾げた。レイジの明るい声が奥から聞こえる。 「おかえり!」 「誰です?」 「この前の人」 「この前?」 「記憶喪失の男」 「え?」村上は驚く。「あの男、まだいるんですか? とっくに記憶が戻って消えたと思っていました」 「まだ戻らないんだ」 「でも、若⋯⋯。だからってここに住まわせなくても」 「警察に言うなって言ったのは村上さんだろ?」 「いや、それは若⋯⋯。すぐに出ていくと思ったからで⋯⋯」  話しながら入っていくと、開け放した縁側でレイジが座り込んでいる。痩せた長い手足が目立つ、短パンにTシャツ姿だ。 「血、出た」ときれいな顔をしかめた。 「血?」 「爪切ろうとしたら、指、切った」 「朝から、ずっと爪切りしてたんですか?」 「ずっとじゃねえよ⋯⋯痛え」 「ちょっと見せて」  レイジの小指の先が切れていた。傷は小さい。血もちょっとだ。  後ろから村上が、「若、ちょっと⋯⋯」と良二を呼ぶ。 「なに?」 「ちょっと来てください」 「どうしたの、村上さん?」  台所まで行くと、村上は小声になった。 「ずいぶん親しくなっていませんか?」 「もう三日も一緒だし」 「殺し屋かもしれない男ですよ」 「ああ、それなんだけど、あの人、サーカスかなんかで働いていたみたいだよ」 「え?」 「曲芸? ほら、ナイフを投げたりするのがあるだろ?」 「マジっすか?」 「うん」  レイジが縁側から、 「腹、減った!」 叫ぶ。 「すぐできます!」良二はエプロンに手を伸ばし、「村上さん、はやく手を洗ってください」と頼んだ。 「はあ⋯⋯」と村上は困惑顔で手を洗い、二人で餃子を作り始めた。 * 「美味いね、これも」  二つの大皿に焼き餃子、もう一つ、土鍋に水餃子も作った。レイジは水餃子の方が好みにあったらしい。レンゲで掬って夢中で食べている。 「レイジさん、昼はちゃんと食べました?」 「うん」 「レンジで温めました?」 「忘れてた」 「え? じゃあご飯が冷たかったでしょう?」 「うん」 「明日はちゃんと温めてください」 「うん」 「もしかして、電子レンジの使い方がわからないとか?」 「ん?」  細い首を傾げて考えると、レイジは「たぶんわかる」と頷く。 「あとで教えますよ」 「わかるって言ってんだろ」  そんな会話を、村上は黙って見つめながらビールを飲んでいる。 「村上さん、餃子、食べないの?」 「いただきます⋯⋯」  村上は箸を伸ばした。二、三個食べると。「美味い」と呟く。それからまたじっとレイジを見つめた。 「こいつ、うぜえね」レイジが眉をしかめる。 「若、追い出しましょう、こいつ」村上が身を乗り出した。  良二は村上のグラスにビールを注ぐ。 「村上さんの方が大人なんだから」 「わかりませんよ、こいつ、もしかしたら50ぐらいいってるかもしれませんよ、若」 「まさか」  良二と村上はじっとレイジを見つめた。レイジは水餃子をスプーンで、ものすごく慎重に口に運んでいる。不器用な手つきは幼稚園児並みだ。  村上がボソッと、「逆に老けた顔のガキって可能性も⋯⋯」眉を顰め、「そうかも」と良二は笑った。  ビール三本と焼き餃子の大皿を平らげた村上は帰り際に「若、ちょっと歩きませんか?」と玄関で良二を誘った。表情が真剣だ。村上は笑みが消えると一気にヤクザらしい雰囲気になる。 「いいけど⋯⋯」  良二が少し緊張気味に村上の後から玄関を出ると、しばらく黙って歩いていた村上が街頭の下で足を止めた。 「本気であいつがサーカスで働いていたって思ってるんですか?」 「可能性はあると思うんだけど⋯⋯」良二は短髪を撫で上げた。 「胡散臭い奴ですよ。俺は経験でわかります」 「追い出すわけにもいかないだろ?」 「若は優しすぎるんですよ。人間は猫じゃありませんよ。拾ったりしたら面倒なことになります」  クシャクシャのマルボロの紙箱とジッポを内ポケットから出すとタバコに火をつけた。手首の包帯にはうっすらと血が滲んでいる。村上が良二の前でタバコを吸うのは初めてだった。ゆっくりと白い煙を吐き、 「俺が組に連れて行きます。それでいいでしょう? ちゃんと若い奴らに面倒をみさせます。元気かどうかの報告も若にちゃんと入れます。そうしましょう、若」  と、家に戻りかけた。良二は村上の前に立ち塞がった。 「村上さん⋯⋯」 「若?」 「口を出さないでください」  良二の口調は丁寧だった。けれど、強い口調でもあった。  村上がじっと見つめてくる。「変わりましたね⋯⋯」と呟いて、口に咥えたタバコを落としそうになった。慌てて指で掴む。 「若、なんだか顔つきが別人だ。坊やすぎるほど坊やっぽかった若が、今夜は男の目をしてますよ」 「別に俺、怒ったわけじゃないから」 「そんな意味じゃありませんよ、若。ちょっと驚いただけです、若のおじいさんの組長も若い頃はそんな目をよくなさってました。それにお兄さんも⋯⋯」  良二には秀一という母違いの兄がいた。村上と同年だ。10年ほど前に殺されたらしい。良二は一度もその兄に会ったことはない。 「まさか、あの妙な男と寝てませんよね?」 「寝てないよ⋯⋯」 「別に男同士がどうとかヤボなことは言いませんけど、あの男はダメですよ。祟りますよ、俺の感は当たるんです。今まで俺がこの世界で生きてこれたのはこの感のおかげです。だからとりあえず今夜は、俺にあの男を任せてください」 「だめだ」  良二は村上を遮ったまま動かなかった。彫りの深い顔に街頭の灯りが影を落としている。村上を見つめる視線はまっすぐで揺るがない。  村上が先に視線を逸らした。タバコの煙を良二に当たらないように横を向いて吐き出す。大きく息を吸って、急に嬉しそうな顔をした。 「若、組の跡を継ぎましょう」 「え?」 「とりあえず今夜は帰ります。今度、いい女を紹介しますから、変な気をおこしちゃダメですよ!」  笑いながら夜道を帰っていった。 *  レイジはまた、縁側に座り込んで爪切りに挑戦していた。「痛ッ⋯⋯」と指を押さえる。縁側は開けっぱなしで、薄暗い庭から虫の鳴き声が聞こえてくる。 「貸してください、俺がやります」  良二は爪切りを取り上げ、「女の人みたいな爪だな」とレイジの細い指先をそっと掴んだ。 「いっぱい血が出た」レイジは眉を顰めた。 「いっぱいじゃないと思うけど」  桜色の爪がガタガタになっていて、ところどころ深爪状態だ。「なんでこんな不器用なんでしょうね、ナイフは上手なのに」と言いながらレイジの爪を、親指から順に整えていく。向かい合っているレイジがパチンと爪切りの音がするたびにビクッと身を縮ませた。 「⋯⋯怖いんですか? 俺、器用だから大丈夫ですよ」 「ちげえよ⋯⋯」 「でも切るたびにプルプルしてるじゃないですか」 「なんだよ、プルプルって」 「プルプルはプルプルですよ。そんなんじゃ、俺も失敗して皮膚まで切りそうだし⋯⋯」  良二はレイジの後ろに移動した。背後から両手を回してレイジの体ごと押さえ込んで、「動かないで」と言いながら桜色の小さな爪を切っていく。カチッと爪切りの音がするたびに、レイジはまたビクッとした。 「大丈夫です、俺を信じてください」良二は笑う。レイジの爪を整えながら、「さっき買い物してたら昔の彼女に会ったんですけど」 「美人?」 「かわいい感じかな。それで、彼女にもう一度付き合わないかって誘われたんです。どう思います?」 「いいじゃん。若いんだから、どんどんヤレよ。でかいの持ってんだから、いっぱい使えよ」 「そうですよね⋯⋯」 「なんだよ? 断ったのかよ?」 「断りました」 「なんで?」 「なんでだろ」  パチンと切ると、また腕の中の痩せた体がビクッとした。そっと押さえ込んだ。押さえるというより抱きしめているに近かった。レイジは薄いTシャツに短パンだけ。肌の温もりが伝わってくる。 「なんでだと思います?」 「知らねえよ」 「なんでだろな⋯⋯キスしていいですか?」 「はあ?」  振り向いた白い人形のような顔の赤い唇にキスをした。唇がそっと触れ合うだけのキス。良二は胸が苦しくなってきて、「俺、あたなのことが好きなのかもしれない。どうしたらいいですか?」と白い首に顔を埋めた。 「知らねえよ」と腕の中のレイジは呟く。それから真面目な声で、「じゃあ俺が好きな飯をとにかくどんどん作れ」 「え?」 「飯だよ、俺を好きなら俺を喜ばせろ」 「なるほど⋯⋯」 「それからさ」 「はい」 「おまえのペニス、さっきから俺の背中にグリグリ当たってる」 「え?」  見下ろすと、確かに自分のそれがしっかりと固くなっていた。 「いつの間に⋯⋯」 「とぼけたこと言うな」笑いながらレイジは良二の腕の中で体を回した。向かい合うとニヤリと笑った。「とりあえずお互いに気持ちよくなろう、好きとか嫌いとかガキみたいな悩みは横に置いとけ」と良二を押し倒して馬乗りになった。 「脱げよ」と自分の短パンを下ろして下半身をさらし、良二のジーンズに手を伸ばす。 「自分で脱ぎます」  二人で縁側で体を重ねた。良二の固く大きなペニスにレイジが自分のピンク色のそれを擦りつけてくる。 「気持ちいいよな...」うっとりとして赤い唇から吐息を漏らす。その顔が恐ろしいほどきれいだった。縁側の木の硬い感触を背中に感じながら、良二は目を閉じた。両手をレイジの背中に回しTシャツの中の素肌に触れる。滑らかで冷たい肌だった。ゆっくり下に下ろして柔らかい尻を掴むとレイジが甘い声を出した。リズムカルに尻を揉む。 「レイジ⋯⋯」  名前を呼んで良二は果てた。同時にレイジも白い液を良二の腹の上に散らす。  小さな声が、 「おまえのこと、嫌いじゃない」  囁くのが聞こえた。

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