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第7話 蘇る記憶

 小さな庭には大きすぎるイチョウの木。日差しを浴びて黄色い葉が光って揺れる。じっと見上げていたレイジの様子が変だと気がついたのは、縁側に広げて干していた布団を畳みかけた時だった。 「レイジさん?」 「ん?」  振り向いた視線の焦点があっていない。お気に入りの水色のセーターの裾を引っ張って落ち着かないようすだ。 「大丈夫ですか?」 「⋯⋯おまえ、誰?」 「え?」 「誰?」 「レイジさん⋯⋯」  良二は裸足で庭に飛び降り、レイジの肩を掴んだ。 「痛いだろ、良二」 「俺のことわかります?」 「なにバカなこと言ってんだよ」  レイジは肩をすくめて縁側に座り、長い足をブラブラさせながらパソコンをいじり出した。柔らかい黒髪が少し伸びて、大きな目を半ば隠している。赤い唇が少しカサついて所々血が滲むのは、毎晩の激しい接吻のせい。セーターの首元や手首には小さな内出血の跡がたくさんついているのもまた、劣情の跡だ。  良二は自分の印がついた痩せた体に手を伸ばした。 「触んな、坊や」 「大丈夫ですか?」 「なにが?」  レイジが熱心に見ているのは、最近自分で立ち上げた『迷子猫クラブ』だ。街中に貼ってある迷子の猫を探すチラシを自由にupできるようになっている。利用は無料だけど広告が入っていて、レイジはそこからわずかだけど報酬を得ている。 「猫助け、人助け、これならおまえも文句ないだろ?」  レイジはご満悦。儲けた金でレアなナイフを買ってコレクションしている。もうすでに10本近いナイフが茶の間の引き出しに入っていた。そのサイトを見ながらレイジはまた「頭、痛い」と呟いてぼんやりし出した。 「大丈夫ですか?」 「ちょっと黙ってろ」  最近、時々こうだ。レイジの記憶が戻りかけているのかもしれない。医者に連れて行った方がいいのかもしれない。考えていると、 「若、勝手に上がらせてもらいましたよ」  明るい声が聞こえ、40歳だけどすでに真っ白な頭をした村上が入ってきた。笑うと人好きのする渋い男で、地味なスーツを着ている。レイジをチラリと見て、「なにしてんです、こいつ?」と眉を寄せた。 「ネットビジネスと人助けなんだって」 「へえ⋯⋯」と呟いて良二を手招きした。「ちょっとお話しがあるんですが、若」 「なに?」  台所の小さなテーブルで向かい合う。渋い日本茶を入れると、村上が懐からたい焼きの袋を出す。 「二人でこっそり食べましょう、若」 「⋯⋯レイジさんにも食べさせてよ」 「その、レイジって男のことですけどね」声を顰めた。笑顔が消えると途端に極道らしい雰囲気に包まれてしまう男だ。「この写真を、ちょっと見てください」  たい焼きの横に一枚の写真を置いた。ピントが外れた写真だった。ビルの前。黒服の男たちに囲まれるようにして若い男が歩いている。その男の顔を、タバコのヤニがついた指で村上が弾く。 「どうです? あいつに似てませんか?」 「レイジさんに?」 「そうです」  良二はじっと写真を見つめた。似ているといえば似ているが、遠目ではっきりしない写真だ。 「顔は似てるような気がするけど、雰囲気が違うよ」 「確かに雰囲気は真逆ですがね」  写真の中の男は両手をズボンのポケットに入れて、横柄な、肩で風を切るような態度で歩いている。レイジはこういう歩き方はしない。のんびりと、あちこちへ視線をやりながら子供のように歩く。 「誰、これ?」 「マフィアです」村上はますます声をひそめた。 「⋯⋯冗談?」 「冗談じゃありませんよ、若」村上はたい焼きを二口で食べた。茶を啜り、「表立っては中国系企業のトップですが、ほんとのところはマフィア、俺たちと同じ職業の男です」 「レイジさんが中国系のマフィアのトップだっていうの?」  笑いながら、良二はたい焼きと日本茶を縁側のレイジに運び、戻ってくるとまた写真を見た。 「よく見ると全然違う顔だよ」 「俺は似てると思いましたけど⋯⋯。名前はレイ・リーというんです」 「レイ・リー?」 「そうです。若、もしかしてあいつは『レイリ』って言ったんじゃないですか? それを『レイジ』と聞き間違えたとか?」 「⋯⋯可能性はあるけどさ、この人、行方不明なの?」 「いや、そんな噂はありません」 「じゃあ違うよ」 「こういう一族は滅多なことでは情報を出してきません。たとえ死んでも必要があれば10年だって隠します」村上はチラリと縁側の方に視線を走らせた。「お祖父様の葬式の時ですけど、うちの組には大陸から逃げてきた奴らもいるんですけどね、そいつらがあいつを見てコソコソ話してたんですよ。なかなか口を割らなかったんですけど、ドツいて聞き出したんです」  『組葬』というあまりにも大掛かりな葬式に警察官の良二が行くわけにはいかなかったし、行く気にもなれなかった。だから式が終わった真夜中にこっそり手を合わせに行ったのだ。その時レイジも着いてきた。 「まあ、もう少し調べて見ますけどね」 「違うと思うな。それより頼みがあるんですけど」 「若の頼みなら月でも取ってきます」 「いや、月は⋯⋯。レイジさんが最近ちょっと、なんていうのか、様子が変で」 「最初から変な男でしょ?」 「そうじゃなくて、記憶がぼんやりするんだ。俺の顔をじっと見て、『誰?』とかさっきも言ったし⋯⋯。保険証もないから、誰かその⋯⋯保険証がなくても診てくれる医者を知ってるかなって」 「よく知ってます、俺に任せてください、若!」  村上が嬉しそうに笑って二つ目のたい焼きに手を伸ばす。横から白く細い腕がさっと出てきてそのたい焼きをさらった。レイジだ。 「俺の」 「てめえ!」  良二は慌てて二人の間に入った。 「半分に切りますから、喧嘩しないでください。二人とも子供じゃないんだから!」 *  良二がドアを開けると、「⋯⋯ッス!」という掛け声のような挨拶を、坊主頭にジャージ姿の若い男たちが一斉に叫んだ。 「バカがいっぱい⋯⋯」後ろのレイジがボソリと言う。良二はレイジの腕をそっと押して「大人しくするって約束ですよね」と囁いた。たい焼きでレイジと村上が本気の喧嘩をしそうになった日から一週間後。朝から冷え込みが厳しく、レイジは白いダッフルコートを着ている。先週買ったばかりのお気に入りだ。良二はグレイのパーカーの上に革ジャン。二人はここまでバイクで来た。レイジが運転したがるのを止めたら「じゃあ、飛ばせ!」というのでかなりのスピードで。 「若⋯⋯」村上が涙ぐんでいる。「若が本部に来てくださるとは」 「やめてください、村上さん」良二は短い髪を撫で上げてる。妙な雰囲気に困ってしまった。  今では合法企業とはいえ元は極道の本部だったビルだ。古いが大きな白いビルで六本木の一頭地にある。バブル時代の地上げの時にこの土地をめぐって多くの血が流れた。土台部分には殺された男たちが埋まっているという噂もあるビルだ。そのビルの最上階に良二とレイジは来ていた。 「医者は奥の部屋で待ってます」  人の良さそうな中年の医者だった。レイジは医者の前のソファに長い足を組んで座ると、壁を見回す。 「ヤクザらしくさ、銃とか刀とかのコレクション、ねえの?」 「別部屋にあるよ、見せてやろうか?」 「サービスいいじゃん、おじさん」 「⋯⋯おじさん」 「村上さん、押さえて」  レイジと医者を残して良二たちは部屋を出る。 「お茶でもいかがですか、若?」  村上が言い終わらないうちに、良二の前に日本茶と和菓子が並ぶ。坊主頭の若い男たちが低く頭を下げるので、どうにも居心地が悪かった。しばらくするとレイジがシャツのボタンを嵌めながら出てきた。 「服、脱いだんですか?」  良二はそっと聞く。レイジの身体中が赤い点々だらけだ。もちろん連日のSEXの跡。首から上はつけないように気をつけていたけれど、服に隠れた場所には容赦ない口付けの跡がある。 「脱いだ」 「なんか聞かれました?」 「変な顔したから、おまえがつけたって言ったら『ああそうですか』だってさ。ヤクザなんてみんな男同士でやってんじゃね?」 「まさか⋯⋯」  医者と小声で話していた村上が、「銃のコレクション、見るか?」とレイジに言う。 「ナイフは?」 「あるぜ」 「見る」 「おまら、連れてってやれ!」  若い坊主頭たちと一緒にレイジが部屋を出ていくのを、良二はなんとなく不安に思いながら見送る。 「あの人たち、大丈夫かな⋯⋯」 「大丈夫ですよ、それより若。医者から話しがあるそうです」  人の良さそうな顔をしている医者は、じっと良二の顔を見つめ「よく似ていらっしゃいますね」とさっきの村上のように涙ぐんだ。「そうしてそこに座っていらっしゃると、オヤジさんが生き返ったみたいだ。若い頃を思い出すと、泣けます⋯⋯」と本当に泣いた。 「わかったから、あの男のことを話せよ、ヨッチャン」と村上がハンカチを渡す。二人は親しいようだった。村上のハンカチで鼻を啜ってから、医者は説明を始めた。 「エピソード記憶障害に間違いないと思います。脳に損傷はないようですし、少しずつ記憶が戻っているようですね」 「時々、ぼんやりするんだけど」 「まあ、言ってみれば、コンピューターが再起動して調子が良くなるみたいな感じですよ、それでぼーっとしたり、少し思い出したりする」 「そうですか」頷いてから、良二は一番気になることを聞いた。「もし全部思い出したら、今のこの生活のことを忘れるというのは本当ですか?」 「100パーセントではないですが、そういうことが多いみたいですね。今、若は『もし』とおっしゃいましたが、もうすでに記憶が戻りかけているようですから、時間の問題だと思います。必ず戻りますよ、安心してください」  医者は、「よかったですね」と笑った。  良二も笑おうとしたけれど、出来ずにうつむいた。 *  二人が乗ったバイクが角を勢いよく曲がった時、後ろのレイジが「あれ、食いたい!」と大声で叫んで良二の背中を叩く。 「え?」 「たい焼き!」 「ああ⋯⋯」  たい焼きの移動販売だ。行列ができている横にバイクを停める。並んでいた女性たちから「かっこいい」という声が上がる。190近いがっしりした体格、革ジャンに黒いメットの良二は確かにかなりかっこよかった。レイジが「モテるね」と意地悪く言って腕を絡ませてきた。 「レイジさん?」 「なんか腹が立つ」 「なにすんですか?」 「キスしてやろっか?」 「いいですけど」 「いいのかよ⋯⋯」  舌打ちをして、列に並んだ。たい焼きは熱々で甘い。食べ終わったレイジが「喉乾いた」と言い出して、自動販売機を探している時、二人乗りの原チャリが走り込んできた。  「危ない!」  悲鳴がたい焼きの列に並んだ客たちから上がる。良二はその悲鳴の前にすでに動いていた。バイクがたい焼き屋の横に立っていたレイジに正面から突っ込む。良二は数秒の差でレイジの腕をつかんで引き寄せた。 「レイ・リー!」  男が叫ぶ。  バイクは大きなゴミ箱に突っ込む。激しいブレーキ音と悲鳴。男たちから目を離さずに、腕の中のレイジに聞いた。 「怪我は?」 「ねえよ、なんだよあいつら⋯⋯」  レイジが言い終わる前にバイクに乗せ、 「飛ばします、つかまって」  良二はトップスピードで走り出す。  すぐにパトカーや救急車が来るはずだった。身分証明書のないレイジがここにいれば面倒なことになる。チラリとあたりを見ながら走った。防犯カメラは至る所にあったけれど、これぐらいなら単なる交通事故扱い。身元がバレる可能性はないと踏んだ。 「なんだったんだよ、あいつら」  家に帰るとレイジは肩を擦りながら言った。 「肩が痛いんですか?」 「おまえが引っ張るからだよ」 「それは、だって⋯⋯」とスマホを出す。バイクを裏口に入れ、念のために家の周りを見回しながら村上に連絡を入れた。「今、俺たち襲われました」  村上、しばらく無言。そして、 「すぐ行きます」  低い、ヤクザの声で言った。 * 「すいません、若!」  村上は玄関で土下座した。 「村上さん、やめてください」良二は慌てる。後ろでレイジが面白そうに笑っている。なにか言いかけたのを良二は視線で止めた。それから村上の腕を取って立ち上がらせる。 「村上さんのせいじゃないですよ。外で話しましょう。タバコでも吸って、落ち着いてください」  本当はレイジに聞かせたくなかったからだ。玄関の引き戸を閉めてから、良二は村上に言った。 「バイクの男たちが『レイ・リー』って叫んでました。あれって間違いなくレイジさんを狙ったんだと思う。なにか知ってますか?」 「うちで預かってた中国人たちがごっそり消えました」村上は真剣な顔で答えた。笑みが消えると不気味なほど暗い目の男だ。その暗い目でじっと良二を見た。 「大陸でヘタうって逃げてきた奴らが、この日本には結構な数いるんです。そいつらが次々に地下に潜り出しました」 「どういう意味?」 「あの男がマフィアボスに間違いないってことです。あいつを殺れば大手を振って故郷に戻れるってことです。これを見てください⋯⋯」  封筒を渡そうとする。良二の後ろから、 「こそこそすんなよ。俺も混ぜろ」  レイジがのんびりと現れた。 「あんた、レイ・リーだろ?」  村上が聞く。  良二はどきりとした。これで一気に記憶が戻ってしまうかもしれない。だけどレイジは、「誰、それ?」と首を傾げた後、小さなくしゃみをする。 「中で話しましょう」  冷たい風が吹いていた。  冬が来る。 * 「この間の写真よりはっきり写っているのを見つけました。マフィア も俺たちヤクザと同じでなかなか写真を撮らせないように用心してるんです。だけどこれはかなりはっきりと写っているでしょう?」  村上がチャブ台の上に一枚の写真を置いた。レイジが覗き込んで呟いた。 「⋯⋯俺じゃねえよ」  だけど、良二にはわかった。これはレイジだ。間違いない。毎晩何時間も抱いている体だ。手の爪の先から足の先まで全てを知っている。写真の男は苛立った顔で髪をかきあげていた。少し首を傾げていた。その細い首も、ほの赤い目元も、間違いなくレイジだ。 「李家というのは古い家系らしいんですが、レイ・リーはその跡取りです。母親の違う弟が二人、それから母親の親戚一同が李家の関連企業のトップに何人もいます。どういうことかわかりますか?」  レイジが写真を指差す。 「このレイ・リーがいなくなれば、得する人間が多いんだろ?」 「あんたのことだけどね⋯⋯」 「だから、俺じゃないって」  良二は縁側のカーテンをきっちりと閉めに行き、戻ると「警察に保護を頼もうか」と村上に聞く。聞きながら馬鹿げた話しだと自分でも思った。香港のマフィアの男を日本の警察が保護するなんて、そう簡単にはいかない。まずは身元確認。ぐずぐずしているうちに敵の方が早く動くだろう。 「無理でしょう」 「だよね⋯⋯」 「とりあえず、組の連中をこのあたりに詰めさせてますが、若、こういう場合の勝ち負けは決まってるんですよ」 「どういう意味?」 「狙われる方が勝つことはありません。狙った方の勝ちです。そういうもんです。時間の問題です」 「なんだよ、それ? 勘違いされて、俺が殺されるってことかよ?」レイジが笑う。 「あんた、なんでそんなに軽いんだ_」村上は言い、「もしかしたら、そういうとこが巨大マフィアのトップの器ってことか?」自分に問いかけるように呟いた。首を横に振って、「とにかく、このぼんやりのんびり青年が殺されるのは時間の問題です」冷酷に言い切った。  良二とレイジは顔を見合わせた。 「俺、殺されるんだって⋯⋯」 「そんなことはさせません」  思わずレイジの肩を抱き寄せる。  村上が、「ヨッチャンから聞いたんですけど、若。まさかとは思いますが、そいつの体の⋯⋯」言いかけて大きなため息をついた。「どっちにしろ、一緒ですよ。早いか、遅いかの違いだけです。ちょっと調べただけでも身内にこれだけの敵がいる男です、寿命はつきてます。毒見をしないと食べないなんて、もう、終わってます」  良二はレイジを抱き寄せたまま低く言った。 「俺が守るから大丈夫です」  レイジがのんびりと、 「腹、減った」  と、呟いた。 *  玄関で村上が静かな口調で言った。 「しばらく俺のマンションに来ませんか、若」 「レイジさんを助けてくれるってこと?」 「まさか、若だけですよ。このままじゃ、若があいつの巻き添えを食うでしょ」 「ひどいよ、村上さん」 「ひどくはありません、冷静に考えているだけです」 「俺」と良二は正面から村上の目を見た。「あの人を守るって決めてるんだ」 「守るなんて簡単に言っちゃダメですよ、若」  村上はそうボソッと呟いて帰った。  良二の古くて小さな日本家屋の周りは、宮人組の男たちが見張っているらしい。それでも不安は残る。良二は神経質なほど戸締りに気をつけ、和室にいくとレイジは布団の中でもう目を閉じている。眠ったのかと思ったら「腹、減った」と目を開けた。今夜は簡単に冷凍うどんですませたので不満らしい。 「おまえさあ、俺に美味いものいっぱい作るって約束したよな。そんでさあ、毎晩突っ込ませてやってんじゃん」 「⋯⋯本当に品がないですよね」 「は?」 「じゃあ明日は串揚げにします」  布団ごと抱きしめた。上から押さえ込むようにして唇を重ねる。 「安心して眠ってください」 「おまえさ」 「はい?」 「あいつが言ってたことは正しいと思うぜ」 「なにがですか?」 「そう簡単に守ったりできねえって」  人形のように整いすぎていて、こうして無表情に見つめられると良二は時々不安になる。手のひらでそっとレイジの頬を撫でた。冷たい。 「人形みたいですよね」 「もう死んでるらしいからな」と笑う。 「バカなこと、言わないでください」  ⋯⋯俺が守りますから。  異変が起こったのは明け方近くだった。  この夜、良二は眠りが浅かった。物音というより囁き声が聞こえたような気がした。腕の中でレイジはぐっすりと眠っている。少し迷って、「レイジさん」と耳元に声をかける。 「ん?」 「押し入れに入ってください」 「なんで?」 「いいから、速く」  半分眠っているようなレイジを押し入れの下の段に入れ、閉めた。バットでも用意すればよかったと思いながら耳を澄ます。自分でも意外なほど落ち着いていた。警察官という仕事柄、柔道と剣道もそれなりにできる。だけど実戦はほとんど経験がなかった。体は大きいが喧嘩とは無縁の穏やかな性格なのだ。  屋根の上に誰かいた。  古い家だ。どんなに気をつけても瓦が軋む。瓦の音が聞こえなくなると、今度は屋根裏から音がした。屋根から屋根裏に誰かが入り込んでいる。ゾッとした。背中に冷たい汗が流れていく。静かに天井の板が動いて、顔がのぞいた。目が合う。次の瞬間には男が飛び降りてきた。ひとり。ふたり。そして三人。無言でナイフを突き出してくる。最初の突きは避けることができなかった。左の肩を浅く切られた。そこからは何も考えなかった。勝手に体が動く。 「若!」  村上が玄関から土足のまま走り込んできた時には、男たちは唸り声をあげてぐしゃぐしゃになった布団の上に血まみれで倒れ込んでいた。三人のうちふたりは、動かない。 「若、大丈夫ですか?」  駆け寄ってきた村上に良二は息を乱しながら聞く。 「そのふたり、生きてる?」  村上が男たちを確認して「いや、もう死んでます」と無感動に言う。後から来た部下たちに「片付けろ。生きてるそいつは連れてけ」と淡々と命じた。 「若、すいませんでした。まさか屋根とは思いませんでした。人影に気がついてすぐに来たんですが」 「村上さん、徹夜してたんですか?」 「若を放っては帰れませんや」 「俺、人を殺した⋯⋯」 「殺されそうになったんですから仕方ないでしょ」 「それでも俺、人を殺した」 「若⋯⋯」  押し入れが開いた。あくびをしながらレイジが出てくる。「なんか、血の臭いすんだけど⋯⋯」呟いた時、 「一発殴らせろ!」  村上がレイジの顔を殴った。 * 「ここは俺に任せてください」  村上と部下が手際よく侵入してきた男たちを運び出し、畳さえも、どこから持ってきたのかあっという間に替えてしまった。 「慣れてますから」と村上の部下の一人が笑った。  すべてがあっという間に元通りになった。村上たちも「外で見張ります」と消える。 「ヤクザ、か⋯⋯」  死体や血まみれの畳と布団が消えても血の臭いは残る。良二は縁側の窓を開け、空気を入れ替えた。後ろでレイジが「痛え」と言いながら大きな保冷剤で頬を冷やしている。 「見せてください」 「痛え」 「ちょっと腫れてるかも」 「マジ、痛え」 「大丈夫ですか?」 「おまえの肩は?」 「擦り傷です」  肩の傷は浅く血は止まっていた。縁側に座り込んだレイジの横に座って抱きしめる。冬間近の深夜。凍ったように冷たい風が家の中に入ってくる。血の臭いが少し薄れた気がして、良二は大きく息を吸った。 「おまえ、立ってんじゃん」レイジが股間に手を伸ばしてくる。 「さっきから立ちっぱなしなんです。俺、どうかしちまったのかも」  相手のナイフを払って、傷つけずに押さえ込むつもりだった。警官としての練習ではいつもうまくいっていた。だけど今夜、殺す気で突っ込んできた相手には、こっちもまた殺す気でやる以外に勝ち目はなかった。そしてふたりも殺した。殺す気で刺した瞬間から、良二のペニスはエレクトし続けている。 「俺の父親って警官になりたかったんです。でも、祖父が前科持ちだったからなれなかった。父はよく俺に『人を助ける人間になれ』って言ってました。だから俺、人を助けるために警官になったんです。だけど、殺してしまった...」  レイジの白い猫柄のパジャマの肩に顔を埋めて良二は静かにそう言った。 「すげえ固い」とレイジは股間に伸ばした手をゆっくりと動かす。しばらく動かして、「俺が鎮めてやるよ」と唇を重ねてきた。村上に殴られた頬が赤くなっている。 「やめときます。俺、今夜はどうかしてるから」 「人を殺したら女で鎮めるのがヤクザ流だろ?」 「香港のマフィアもそうなんですか?」 「さあな⋯⋯」  冷たい縁側の上で体を重ねた。レイジの声は最初は甘く、しばらくすると苦痛に満ちた。かなりの時間が過ぎた後、やっと果てることができた良二は、 「俺、警官やめます」  ぐったりと動かないレイジの冷たい肌の上で、泣いた。

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