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第9話 帝王の復活
東京、昼下がりの六本木に粉雪が舞っている。
「猫を探さなきゃ⋯」
呟いた青年の艶のある髪が雪混じりの風に乱れた。
高層ビル街の歩道、青年の足取りはふらついている。
水色のセーター姿で長めの前髪。
その顔が、ちょっと見ないほどのレベルだった。
道ゆく男女すべてが振り返り、中には立ち止まって惚けたようにじっと見つめる者もいるほどに。
「猫を⋯猫を探さなきゃ。痛ッ⋯」
白磁のような肌の青年は両手で頭を押さえた。激しい頭痛がしているのだ。
「猫を⋯⋯」
ともう一度呟いて、青年が歩道に崩れるように座りこんだとき、目の前の高層ビルから男が出てきた。
屈強な男たちを引き連れていた。黒い高級カシミアコートを着て、レトロな銀縁の丸メガネをかけている。
メガネの男は、黒塗りの高級車に乗り込む寸前に立ち止まった。
「待っていろ」
部下に命令して、歩道に座りこんでいる水色のセーターを着た青年をじっと見つめた。そしていきなり、
「若!」
黒いコートをひるがえして走り出した。
「今までどこにいらしたんですか? 半年間、必死で探したんですよ」
男の表情には興奮と安堵が入り乱れている。「ご無事でよかった」と言って、地面に両膝をつき、青年の肩を強く抱き締めた。
「ヤン」
青年が顔を上げた。
「はい、若?」
「腕をどけろ、鬱陶しい」
冷たい命令口調だ。
ほんの数秒前までは大学生のように無害な雰囲気だった青年が、急に、まったくの別人になっている。
虚ろだった大きな目には鋭い光がある。
「どけ」
と、男を払いのけて立ち上がると、灰色の雪曇りの空を見上げた。
「記憶がなくなっているようだな」
他人事のように冷静な声だ。
青年の名前はレイ・リー。
夢に見るだけで心臓が止まると噂されている香港マフィア界の若き帝王が、粉雪が舞い散るこの日、復活した。
*
「香港のお父上もお喜びです」
ヤン・ジェンユー(楊振宇)が銀縁の丸メガネを人差し指で押し上げた。
濃い緑色のスリーピースを着て、面長のハンサムな顔立ちをしている。レイの右腕で、祖父の代からリー家に仕えている男だ。
李カンパニーの六本木ビルの最上階にはレイ・リーの私室があった、
レイ・リーは壁一面の窓のそばの白いソファに座って、「へえ」と薄く笑った。
「そして義母上も」
「冗談だろ?」
レイと義母はお互いに殺し屋を雇うほど仲が悪いのだ。
ヤンは、
「もちろん私もです、若」
と笑った。嬉しくて仕方ないらしい。足取りすらも楽しそうだ。
ヤンは片手に黒い高級スーツ一式を持っている。もう片手の手では、慌ただしくスマホでメッセージを送り続けている。
「頭痛は治りましたか?」
「痛いのは治ったけど、何も思い出せない」
半年間の記憶が真っ白な紙のようになってしまっていた。
最後の記憶は半年前の真夏の土曜日だった
晴れ渡った青空を見上げながら湘南の海沿いの道をシルバーのBMWオープンクーペを走らせていた時に、突然、目の前に黒い大型のバンが止まったところまでは覚えている。
その後はまったく記憶がない。
気がついたら半年後の今日で、水色の子供っぽいセーターを着て本社ビル前にいた。
「医者を呼びましたから、ご心配なさらずに」
ヤンがスーツを手渡す。
「かもな」
と受け取って、レイは水色のセーターを脱ぎかけ手を止めた。
腕の内側に赤い点々がついている。
「赤い点が」
言いかけて、黙った。
赤い点は腕だけではなかった。
胸元を覗き込むとそこにもある。
「若?」
「シャワーを浴びる」
バスルームへ行った。
大理石の壁は豪華で、入ってすぐに大きな鏡がある。
レイは水色のセーターを脱ぎ乱暴に床に投げ捨てた。
全裸になり、艶のある白い肌に滑らかな筋肉がついた自分の身体を鏡越しに見る。
「チッ」
と小さな舌打ちをした。
赤い点々は腕や胸だけではなかった。
腹にも、引き締まった尻から太もも全体にも、赤く小さな花びらが散っている。
キスマークだ。
誰かが、レイの肌を強く吸った跡だ。間違いない。
「ふざけやがって」
痛いほど熱い湯を出した。
頭から湯を浴びながら、消してしまおうと花びらを擦る。
その瞬間だった。
腰にズンと甘い記憶の刺激が走った。
思わずのけぞる。
誰かの大きな手に尻を撫でられたような気がした。
撫でられ愛撫されたような気もした。
頭では何も覚えていない。
けれども体が覚えている。
「ふざけやがって」
赤い唇を噛んだ。
ヤられたことはどうでもよかった。
マフィアの男も女もレイプごときで参ったりはしない。
体の外を殴られたか中を殴られたかの違いだけだ。
だけど、体が覚えている甘い感覚が許せない。
あっという間に下半身が反応してきて、固く、今にも放ってしまいそうなほどに高まっている。
「殺す⋯⋯」
レイ・リーはシャワーを冷水に変えた。
自分に触れた男の記憶を洗い流すために、震えるほど冷たい水を浴びつづけた。
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