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第10話 暗黒街
一ヶ月後。
香港——。
亞皆老街(アーガイル・ストリート)
「俺じゃありません!」
男が血反吐を吐いた。
「へえ⋯」
壁にもたれて、レイ・リーは細い飛び出しナイフを手の中で弄んでいる。
黒い髪が今夜はきれいに撫でつけられ、人形のように整った顔を際立たせている。
細身の黒い高級スーツはGUCCI。
白いシャツの胸元が深く開き、黒いネクタイは結ばずに垂らしている。
「続けろ」
と命じると、レイは左手でナイフを投げた。
縛られた男のすぐ横の床に、グサリと刺さった。
「はい、若」
黒服を着た人相の悪い男たちが、縛られた男をまた蹴り始めた。
昔は九龍と呼ばれた雑多な街の、古いビルの地下。
壁には地下水が黒く滲んでいて、今にも崩れ落ちそうだ。
汚い泥水が溜まった床に三人の男たちが転がっている。
「本当に何も知らないんです、許してください、若⋯」
掠れた声で一人が言った。
レイは黙って床に転がる男たちを見つめながら、
⋯⋯俺は男が好きじゃない。
と、考え始めた。
転がっている男たちは半裸だ。
局部が半ば見えている男もいる。
そんな姿を見てもレイの体はピクリとも反応しない。
だから、
⋯⋯俺は男に欲情したりはしない。
と、赤い唇を噛む。
レイが拉致から戻って一ヶ月がたっていた。
実はレイは、帰ってきてからずっと同じ夢を見続けているのだ
男にヤられて喘ぐ夢だ。
夢の中、男の顔はわからない。
ただ、大きく逞しく力強い体をしていることははっきりとわかる。
男のペニスが大きく硬いこともわかる。
レイは男に激しく突かれている。
永遠と思われるほど長い時間、男に突かれ続けている。
喘ぎ続けたレイは、その自分の喘ぎ声で目を覚ますのだった。
それが毎晩続いている。
「正直に言えば助ける。俺を拉致った奴らの噂ぐらい聞いてんだろ?」
冷たい声で聞いた。
「知りません!」
「知らないわけはないだろ?」
「本当に知りません!」
男たち三人はレイの義母の家で使いっ走りのような仕事をしていた。
レイは、自分を拉致った可能性が一番高いのは義母だと思っている。
レイには二人の兄弟がいて、二人とも義母の実子。
つまりレイさえいなければ、リー一族の全てが義母たちの物になるのだ。
「どうします?」と強い蹴りを入れてから、スキンヘッドの男がレイに聞いた。釣り上がったサディスティックな目をしている。こういう仕事が好きな男だった。
「殺れ⋯⋯」
レイがそう言うと、縛られた男たちが悲鳴をあげた。
本当に殺す気はレイにはなかった。
それはスキンヘッドの部下もわかっている。
どうやら本当に知らないらしいので、少々脅かしてこっちサイドのスパイにするつもりだった。
「あとは任せる」
部下に任せて古びたビルを出ると、汚い路地の真ん中に黒塗りの高級車が停まっていた。
ヤン・ジェンユー(楊振宇)が車の外で、靴についた泥水を気にしていた。
黒に近い緑色のスリーピースをビシッと着こなしたヤンは、レイに気がつくとレトロな形の丸メガネを人差し指で押し上げながら、
「そろそろ時間です、若」
とハンサムな顔で少し咎めるような顔をした。
「まだ早いだろ」
「もう二時間も待たせていますよ、若」
「そんな時間か?」
レイは肩をすくめた。
辺りは薄暗い。日が沈みかけている。
香港という街はこれからが本番だった。
そういう街だ。昼間は眠り夜になると生き返る。
「日本人たちが怒ってます」
ヤンがレイのゆるんだ黒いネクタイに手を伸ばし、慣れた手つきで結び直す。
「三時間は必要だろ」
ポケットに両手を入れてヤンが結び終わるのをレイは待つ。
不器用な男だった
。ナイフ以外は上手にできないことの方が多い。
レイとヤンは今夜、日本の巨大極道組織の若い跡目(あとめ)と会うことになっていた。
リー一族と手を組みたいと、最近、頻繁に連絡を取ってくる。傲慢な跡取りだという噂の男だった。
それを三時間待たせろと、レイは言っているのだ。
「最初が肝心だろ?」
レイは、几帳面にネクタイを整え続けるヤンの手を軽く払うと、車に乗り込んだ。
*
高級中華店『龍華』は古典的な装飾の店だった。
赤や黄色の艶やかな色が店中を彩っている。その店の前に黒い高級車が停まった。
男が二人、店内に入ってくると、派手な柄のチャイナ服を着たスタッフの女性たちが「誰?」とざわめきはじめる。
前を歩く男が、ちょっと見ないほど綺麗な顔をしていた。
かなり細身の黒いスーツ姿。艶のある黒い髪を古い映画に出てくる二枚目俳優のように後ろに撫でつけている。
それがよく似合っている。
白磁のような滑らかな肌に淡く朱色が浮かぶ頬。作り物めいた美貌に表情はない。
小太りの男が、「仕事に戻れ!」と足早に通り過ぎて行った。店長だ。男たちの前に行くと緊張した笑みを浮かべた。
「若様、お待ちしておりました」
「日本人の様子は?」
もう一人の銀縁丸メガネの男が聞いた。こちらもなかなかハンサムな顔をしている。
「仰せのとおり、待たせています」
「若、どうします?」
「行く」
若と呼ばれた男が歩き出した。白く細い指で飛び出しナイフを弄んでいる。左利きだ。
「若、ナイフは⋯⋯」
「は?」
と、きつい視線。
丸メガネの男は一瞬黙り込んだけれど、すぐに少々強めの声で「若」と言い美貌の男の腕に触れた。
「なんだ?」
「ナイフは困ります」
「チッ」
小さな舌打ちをした。カチリと畳んで左ポケットにナイフを入れた。
男たちの姿が店の奥に消えると、スタッフが店長のまわりに集まった。
「誰ですか、店長?」
小太りの店長は額に汗をかきながら、
「夢に見ただけで心臓が止まると言われている男だよ⋯⋯」
そう答えて、急いで厨房へ走った。
*
レイ・リーとヤンが入っていくと、日本人たちが立ち上がった。
奥の個室は広く壁ぞいには清澄時代の調度が並ぶ。大きな円卓があり、香りの良いお茶が出されてはいたがそれも冷めている。彼らは2時間以上も待たせられていた。
一人は若く、もう一人は髪が白い。今夜の交渉は互いの腹の探ぐりあいになるはずだった。これからどういう力関係でいくか、それが決まる初顔合わせだ。
「お会いできて光栄です、村上と申します」
地味なスーツを着た白髪の男が丁寧に言った。
日本語だ。
髪は真っ白だったけれど四十代ぐらいに見える。
無表情だと不気味な雰囲気のある切長の目が、
「香港は、意外と寒いですね」
そう言って笑うと途端に人懐っこくなった。
宮人グループの、裏の仕事を仕切る若頭で、後目の側近だ。
もう一人は百九十近い身長。肩幅が広く胸が厚く、まるでプロスポーツ選手。
黒い短髪で目が鋭い。
ハンサムなだけじゃなく、若いのに妙な迫力もあった。
「宮人良二(みやじんりょうじ)です」
低い声だ。
笑みを浮かべてレイに手を差し出してきた。
三時間待たされたにしては、二人とも機嫌がいい。良すぎるぐらいだ。
レイはその手を無視した。席に座りながら、
⋯⋯大きな手だ。
と、考え始めると頭がぼんやりし始めた。
ふと、毎晩見ている夢を思い出す。
男の手の感触を思い出すと、ビクッと小さく震えた。
⋯⋯俺は男に興味はない。
心の中で自分に強く言ってから、
「お待たせして申し訳ありせんでした」
と、丁寧に言った。
ヤンが、
「中国には握手の習慣はないんですよ」
と、取り繕うように笑った。
『龍華』は高級中華で有名な店だ。
フカヒレや干し鮑の一皿が目が飛び出るほどの値段がする。
特に佛跳牆(ぶっちょうしょう)という、仏様も飛び上がるほど美味い、という名前のスープが評判だった。
佛跳牆の小さな壺が運ばれてきた。
四人の前に紙で蓋をした茶色い小壺が置かれる。
レイの好物でもあった。週に一度はこの、ひとつで何十万もするスープを飲んでいる。今も目の前に壺が来ると、人形のような無表情だったきれいな顔が、ほんの少しだけほころんだ。
紙で封印された蓋をテーブルスタッフが開けると、良い香りが漂う。
「失礼します、若」
ヤンが銀のスプーンで、レイの佛跳牆からスープをすくい取る。
毒見だ。
小さな頃から数え切れないほど毒殺されかかってきたレイだった。血を吐いたことは何度もあるし、意識不明になったこともある。だから、毒見なしにはいっさい食べない。ヤンはレイの側近兼毒見係なのだ。
白髪の村上が、
「いろいろと大変なお立場ですね」
と毒見に驚いた様子もなく言う。
レイが毒見なしには食べないことは事情に通じた人間なら皆知っていた。
食事は和やかに進み、ヤンと村上が二人で探り合うような会話を続ける。
「日本にも商社ビルをお持ちですが、今のトップは?」と、知っているだろうに村上が質問してきたり、「ずいぶんお若い後目でいらっしゃるが、実権は?」とヤンが冗談めかして聞いたりしている。
どちらの男たちも答えは曖昧だ。
レイは時々、抑えきれない衝動を感じて。目の前の若い男に視線を走らせた。
⋯⋯いい食べっぷりじゃないか。
良二の目の前の皿だけが次々に空になっていく。
「寒くはないですか?」
急に、良二が聞いてきた。
部屋は確かに少し寒々しい。
レイが黙っていると、良二はスタッフを呼んで空調を調節するように穏やかな声で頼んだ。
とても巨大極道組織の後目を継ぐ男とは思えない態度だった。
傲慢な若造だと、レイたちは思っていた。調べた資料にもそう書いてあった。
しばらくすると今度は、
「よく眠れていますか?」
と、奇妙な質問をしてくる。
レイは表情を変えずに黙ってうなづいた。
「日本では長めの入浴をして体を温めるんです。シャワーだけだとダメですよ」
これは無視する。
訳がわからない、と思っていると、白髪の若頭が、
「まるで若い恋人同士の会話みたいすね」
と、酒が入った赤い顔で笑う。
レイは体が一気に熱くなった。
「村上、失礼だろう」
良二が低く言う。
⋯⋯ありえない。
レイは思った。
下半身が反応しかけていた。
ゆっくりと硬くなり始めていた。
こんなことはありえない。絶対にありえない⋯⋯。
「村上は酒に弱くて」
良二の鋭い目がじっと見つめてくる。
長いまつ毛を伏せて、レイは左手をポケットの中のナイフに伸ばした。
カチッと刃を出す。
そのまま鋭い刃を握りしめる。
鋭い痛みと、血が流れる感触——。
立ち上がりかけていたレイのペニスが、ゆっくりと治ってくる。
数回、長いまつ毛で瞬きをしてから、目の前の若い男をじっと見つめた。
そして、
「料理はお気に召しましたか?」
穏やかな口調で、レイは聞いた。
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