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第11話 香港

黒い高級車の後部座席、ヤンは書類をめくる手を、ふと、止めた。銀縁のレトロな丸メガネの奥の知的な目が柔らかく笑い、レイ・リーに話しかける。 「あの宮人良二という若い跡目(あとめ)は、なんだか奇妙な男でしたね、若」  レイ・リーはさっきからずっと黙り込んでいる。  ヤンが読んでいる書類は宮人グループの詳しいレポートだった。一般企業のふりを上手にしているが、元は極道。建設関係からスタートして今では半導体関連まで手広く手を出している。 「若いが、迫力もある。祖父は亡くなったらしいですが⋯⋯」  途中で言葉を途切らせた。  レイ・リーの機嫌がかなり悪い。レイが15歳のときからそばに仕えてきたヤンは、レイに小言を言える数少ない人間だったけれど、ここまで機嫌が悪くなるともう、手に負えない。  お疲れですかと聞こうと思ったけれど、やめて、ヤンも黙った。黒い高級車が滑るように香港の街を走っていく。 *  真夜中の香港。街には煌々とネオンが煌めき、人がひしめく。香港の夜は眠らない。眠らない人間たちが作り上げた街だから眠ることは絶対にない。レイ・リーも、その眠らない夜に住まう人間のひとりだった。車窓を見つめ、  ⋯⋯俺をこんな体にしたのは、誰だ?  と考えている。  ポケットに突っ込んだ左手は血塗れ。鋭いナイフの刃を握りしめたからだ。そうでもしなければ、あの場でエレクトし続けていた。  レイ・リーはセックスに異常なほど興味がなかった。たまに女を抱くけれど体は冷たいまま。服すら脱がない。興味がないのだ。ナイフでの喧嘩の方がよほど楽しい、と思っている。そんな男だった。それなのに今夜、初めて会った若い男に欲情した⋯⋯。  もしかすると妙な薬でも盛られて、こんな体になったのだろうか? 「ヤン⋯⋯」 「はい?」 「俺を拉致った奴が誰かわかったか?」 「すいません。情報網を広げてはいますが、まだ」 「使えねえ⋯⋯。殺すぞ」  冷たい声。 「申し訳ありません、若」 「義母だろ?」 「かもしれませんが、証拠がありません」 「証拠なんていらないだろ? 『お母さま」のところに行け」 「今からですか?」 「行け」  怒りには捨て場所がいる。これからそれを、捨てにいく⋯⋯。 *  香港の北に位置する高台に、白く瀟洒な洋館がある。レイの義母はそこに一人で住んでいた。広い庭には灰色の制服姿のガードマンが十数人。ここ数年、義母はまるで何かを恐れているかのようにセキュリティーに力を入れている。  車は浅黒い顔の門番に止められた。 「突破しろ」  レイが静かに言う。  ヤンが門番の手に金を渡した。いくらレイの命令でもさすがに鉄の門を車で突破はできない。だけど世の中、金。門番はその金を握って、この夜のうちに香港から消えた。  黒い大型車はゆっくりと敷地内へ入り玄関前に停まる。レイは「そこにいろ」とヤンに命じて一人で屋敷に入っていった。  屋敷内の警備員たちはもちろん皆、レイの顔を知っている。「若」と呟いて怯んだ。そのままどこかに逃げた。玄関から二階に繋がる派手で豪華な、舞台装置のような階段。レイはゆっくりと登っていき、義母の寝室まで行くとドアを足で蹴破った。  薄暗い寝室は粉っぽい香水の香りで満ちている。レイは一気に気分が悪くなって顔をしかめる。「チッ」と舌打ちをすると、手当たり次第に豪華な生花、大きな壺、絵画などを壊していった。キングサイズのベッドの上で女の悲鳴が上がった。 「レイ・リー?」  義母だ。男と一緒だ。もちろんレイの父親ではない。義母の愛人だ。愛人が飛び起きて逃げようとするのを、レイは長い足で引っ掛ける。ポケットから自分の血に塗れたナイフをするりと取り出すと、男の肩から背中を切りつけた。ギャっと声を上げて男は逃げる。 「俺を拉致りましたね?」  暗く冷たい声。 「わ、私じゃない⋯⋯」  50代半ばのはずの義母は、30代の顔で答えた。美人ではあった。大きな二重の目は整形かもしれないが。  レイは無言で、義母の頭のすぐそばの羽毛枕にナイフを突き刺した。シルクの布が破れ、薄闇に、白い羽毛が雪のように舞った。 * 「帰る」  車に戻るとレイは呟き、それから左手をヤンに差し出した。 「切ったんですか?」  ヤンが聞く。レイは黙って頷いた。  本当は自分でナイフを握りしめてできた傷だった。だけどそんなことは言えやしない。  ヤンは自分に「殺す」とさっき言ったレイの手を、大事そうにそっと支える。 「見せてください、若。⋯⋯ひどいなこれは、医者を呼びましょう」  レイは黙ったまま車窓を眺めた。高台から街へと車は下りて行く。眼下に、ギラギラとした香港の夜景が広がる。 * 「寒くないですか?」  夢の中で男が聞いた。レイは、 「寒くない」答えて、それから男に抱きついた。二人の体は繋がっている。畳の上にレイたちは裸で横たわっている。 「ほんとですか?」 「うん」  頷く自分の声が甘えている。  レイは横向きに寝ていて、後ろから男が包み込むように抱きしめて、緩く腰を振っている。それがものすごく気持ちがよかった。下半身に痺れるような快感がある。もっとそれを感じたくて、レイは尻を男のそれが深く入るように押し付ける。  男が「気持ちいいですか?」と聞き動きを速めた。レイは「⋯⋯ン」と唇を噛む。 「痛くないですか?」 「⋯⋯気持ち、いい」  レイの声はしだいに喘ぎに変わり、最後には泣いているような声さえもでる。横向きの姿勢がまどろっこしくなって、レイが「前からがいい」と言うと、男はまた笑う。笑っていることはわかるけれど、男の顔ははっきりとはわからない。  レイは仰向けになり両足を開く。男が正面から抱きしめてきて、レイの膝を抱える。そのまま中に深く入ってくる。それだけでイきそうになった。  出し入れしてくるそれが大きい。「⋯⋯あッ」と声にならない声を、レイは出し続ける。しがみつくと、「動けませんよ」と男が笑い唇を重ねてきた。  息が止まりそうなキスの途中で、レイは目が覚めた。

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