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第12話 美貌のマフィア

 香港——。  早朝の晴れわたった空に届きそうなほどの高層マンション。  豪華なエントランスから、背が高くモデルのような細身の男が、機嫌の悪そうな様子で出でくる。GUCCIの細身の黒いスーツ姿。左の手のひらに包帯。気になるらしく、人形のように整った顔をしかめてその手を振っている。抜けるように肌が白く、唇が赤い。  レイ・リー。  中国を二分する勢力を持つマフィア系巨大企業の若き跡取りだ。  スーツ姿の男たちが、黒塗りのキャデラックのまわりで待っている。キャデラックは超ロング。でかい。後部座席はまるで応接間で、10人は座れる広さの特別仕様車だ。 「おはようございます、若」  側近のヤン・ジェンユー(楊振宇)をはじめ20人ほどの部下たちが頭を下げたが、レイは無視。 「行く」  命じると、後部座席に乗り込んだ。 「おはようございます」  と、車内に人。  昨夜会った若い男、日本の極道の宮人良二がなぜかそこににいた。 「は?」  形のいい眉を片方だけあげた。 「こいつ、なんだ?」とヤンに聞く。 「こいつとかおっしゃらないでください、若」後から乗り込んできたヤンが言った。「今日は予定を変更して、日本からのお客様の香港案内をなさってください」少しだけ面白がっているような口調で言だ。それからレイの耳元で、「いい条件で話がまとまりそうなんです。どうしても若に香港を案内してほしいそうなので協力してください」と囁いた。 「ふざけるな」 「⋯⋯若」  ヤンの目が「頼みますから」と言っている。  レイはわざと大きなため息をついた。 「俺も忙しい身なんですけどね⋯⋯」 「ご面倒をおかけします」  宮人良二はまったく悪いとは思っていないような口調だ。真夏の太陽のような屈託のない笑顔。若い身体に朝からエネルギーがみなぎっている。彫りの深い端正な、少し野生的な顔。ダークグレイのスーツはたぶんTOM FORD。鍛え上げた男の胸をエロく強調するために作られたその服が、よく似合っている。柑橘系に甘い果実をプラスしたようなコロンがほのかに香る。 「怪我ですか?」と、良二はレイの左手を見て眉をひそめた。 「怪我です」それ以上の質問を許さない、そんな口調で答える。 「ミスター・村上は?」 「村上は別件で大陸に行きました」 「俺、香港の街には詳しくない」  あまりに腹が立ったので、レイの口調は子供のようになってしまった。  良二が急に笑い出す。 「面白いですか?」 「はい」  ⋯⋯バカヤロウ。  レイ・リーはシートに深く座り、今度は本当の深いため息をついた。 *  二人の背の高い男がビクトリアハーバーの遊歩道を歩くと、観光客がざわめき始めた。  ⋯⋯誰?  ⋯⋯ドラマの撮影?  そんな声が聞こえてくる。  レイ・リーは、午前中の青白い光の中にキラキラと輝く水面を指差し、 「海です」  呟いた。 「なるほど、海ですね」  良二はご機嫌だ。 「宮人さん、楽しいですか?」  変な男だと思いながら聞く。近くには寄らないように気をつけている。ここでまた、昨夜のようにエレクトしてしまったら洒落にもならない。 「楽しいです。良二と呼んでください、ミスター・レイ・リー」 「じゃあ俺のことは、そのまま、ミスター・レイ・リーと呼んでください」  ぶっきらぼうにそう言っても良二は素直に「はい!」と嬉しそうに頷いた。レイが呆れていると「アイス、売ってますよ」と移動販売のアイス屋に行き、「なに味がいいですか?」と聞いてくる。  ガキかよ、と思いながら黙っていると、良二はバニラ味とイチゴ味の2つの渦巻き状のソフトクリームを買う。イチゴ味の端を一口食べる。 「大丈夫です、どうぞ」とレイに渡してきた。  ⋯⋯毒見のつもりか?  思いながらもつい受け取ってしまった。でも、食べない。そもそもアイスなんて食い物をレイは食べたことがほとんどないのだ。持て余していると、 「美味しいですよ」と良二は自分のバニラ味を食べ始めた。「一口だけでも、どうぞ」 「チッ」と舌打ちをして、すぐそばのゴミ箱に投げ入れた。それでも良二は機嫌を損ねることはなく、「美味しいのに」と広い肩をすくめた時、レイは、ゴミ箱の奥の木々の後ろに人相の悪い男数人がいることに気がついた。  レイの部下ではない。それとなくまわりを見ると、常にまわりにいるはずの部下たちが、いない。どうやらレイの部下たちは、ビクトリアハーバー観光客の楽しげな雰囲気に呑まれて、気を抜いたのだろう。 「良二さん」  レイは低く声をかけた。 「囲まれましたね」  良二が答える。良二も怪しげな男たちに気がついているらしい。それでも穏やかな顔をしながらアイスを舐めている。  ⋯⋯バカなのか度胸があるのか?  レイは思いながら歩きはじめ、「俺のそばにいると、色々と危険ですよ」脅してみる。 「俺が守ります」 「は?」  ふざけんな、と言いかけた時、人相の悪い男たちのひとりが動いた。右手をジャンバーのポケットに入れ、そこが不自然に膨れている。銃だ。レイは「ここからはひとりで観光してください」と良二を残して、人混みに向かう。 「待って!」  腕を掴まれた。 「そっちに行ったら、一般人が巻き添えになるかもしれないでしょう? こっちに行きましょう」  良二がレイの手を握った。 「離せ!」  良二は離さない。男たちがじわじわと近づいてくる。舌打ちをしてレイは、良二と手を繋いだまま走りだした。 *  香港の路地は昔から、密かにこう言われている。大通りは安全。大通りから一回だけ角を曲がった路地はまあまあ安全。もう一回曲がった小道はちょっと危険。さらに曲がったらそこは魔都⋯⋯二度と戻ってくることはできない。そう昔から言われている。  レイ・リーは、 「こっちだ」  香港の道の角を5回、曲がった。  薄暗く、何を売っているかはっきりしない店が並ぶ道だ。古いビルが左右にぎっしりと並び、朝の光はここまで届かず薄暗い。二人はまだ手を繋いでいた。レイは良二の手を振り払い、 「バカか、おまえ」  睨んだ。灰色の瞳が暗く光る。気の弱い人間なら睨まれただけで震え出してしまいそうなほど迫力のある、そして美しい目だった。だけど良二には通じないらしい。 「巻いたかな?」  と、楽しそうに笑う。これだけ走っても息も上がっていない。 「馬かよ、おまえ」  荒い息を整えながら、レイはあたりを見回して「ヤバい⋯⋯」と呟いた。 「どうしたんですか?」 「シャオ家のシマに入っちまった」  シャオ家は、レイの李家と敵対するグループだった。香港は今、この2つの勢力が二分している。このあたりに境界線がある。目には見えないが、裏社会の人間なら誰もが知っている線だ。それをレイは踏み越えてしまっていた。 「行くぞ」  歩き出した。良二がついてくる。レイを庇うようにすぐ後ろを歩く。でかい体が鬱陶しい。 「もっと離れろ」 「危ないんでしょう、この辺は⋯⋯」と言いかけ、急に表情を変えた。左右を見ながら「隠れた方がいい」とまたレイの手を取ろうとする。  レイも気がついていた。かなりの数の気配が近づいてくる。たぶん、右の角を曲がったあたりから数秒後には敵が現れるだろう。 「触るな」と振り払って、古い小さな倉庫を見つけた。壊れかけたドアは簡単に開いた。するりと入る。日本人の若者はこのまま路地に放っておこうかとチラリと思ったけれど、ヤンが怒るだろうと考えて、「来い」と犬を呼ぶように声をかけた。良二が嬉しそうに飛び込んできた。  狭い。  二人の男が入るともう隙間はほとんどない。扉を閉めると真っ暗になった。段ボールが足元に転がっているのでまっすぐ立つこともできない。やや斜めになりながら、扉の隙間から外を伺う。路地を走る男たちの姿が見えた。キョロキョロとあたりを探している。二十人近い。レイの武器はナイフ一本だけ。それでもいつもなら「殺れる」と思う人数だったが、ここは戦家のテリトリー。あたりに何人いるかわからない。さすがのレイも、隠れてこの場をしのぐことにした。 「ふざけやがって」  と呟いた時、足元の段ボールにつまづく。そのまま扉にぶつかりそうになった時、力強い手が後ろから抱きしめてきてレイを支えた。グイと包み込むような腕。レイは思わず、 「触んな!」  叫びかけ、今度は手のひらで赤い唇を押さえられた。  ⋯⋯静かに!  耳元で良二が低く囁く。  扉の向こうで「いたか?」「いない」そんな声が聞こえる。レイは体を硬くした。外の男たちのせいではない。自分の背中にピッタリと張り付いて、両腕を体にまわし、口を手で押さえている男のせいだ。  外の声はなかなか消えない。そのままじっと、後ろに男の熱を感じ続けた。暖かい体だった。ほのかに柑橘系の香りがする。くらりと、レイは足元がぐらつく。それをまた強い力で抱きよせられた。  体が震えはじめた。  レイ・リーは数年後には、『大陸の覇者になる』と噂される男だ。誰もが羨むほどの美貌にすらりとした恵まれた体。頭も切れる。イェール大の法科博士号を17歳で取った。そんな男が、今、震えだしている。  セックス。  レイ・リーの唯一の弱点だった。 *  敵の気配は消えず、レイは後ろから良二に密着されたままじっとしている。口を押さえた良二の手を外そうとすると、 「シッ!」  逆に強く押さえられた。大きな手は暖かい。レイの心臓は徐々に速まる。良二は愛する女でも抱くようにレイに腕を回していた。首筋に息がかかる。体に回された左手がギュッと強まり、口を押さえた右手が動いた。指が一本、レイの唇を割るようにして中に入ってくる。  ⋯⋯やめろ!  抗うと、もっと強く抱きしめられた。口の中の指が愛撫するかのようにゆっくりと、レイの舌を探し出して、弄ぶ。  レイ・リーは勃起した。  良二のそれもたぶん固くなっている。レイの背中の下の方に大きく固いものがぶつかっている。  震えるリーの体を大切なものでも扱うかのように抱きしめている良二が、「レイ⋯⋯」と耳元で囁いた。 「やめろ」とレイは呟き、それから「やめろ!」と怒鳴って、扉を蹴破り路地に飛び出す。 「レイ・リー!」  黒っぽい服の男たちが、ぐるりとレイのまわりを取り囲む。皆、銃を持っている。 「⋯⋯殺す」  低く言って、レイ・リーはナイフを構えた。

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