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第7話 狼男
「っ!」
なにか、悪夢を見たような気がする。
悪夢を振り払うように起きれば、フワッフワしたものが顔に当たる。
あったかくてやわらかい。
いやすごい! カシミアに匹敵するやわもふ具合だ! こ、これは素晴らしい!
うわー。なにこれ~。
夢中で顔を埋め、両手でモフモフしていると毛玉が動いた。
「起きました? ベリちゃん」
こちらを向く、狼の頭。
「ぎゃは―――――ッ⁉」
悪夢が続いている。
「おおっ、おおかっおおおおお! おおかみっ⁉」
一気に頭が冷めてずしゃあと後退るが、無限に逃げられなかった。
巨狼の尾が、俺の胴体に巻きつく。
「ひいっ⁉」
「戻っておいで」
ずるずると引き戻される。獣のように四つ足ではなく、二本の後ろ脚で起き上がる狼。いや狼男。三メートルはありそう……。
衣服にズボンも身につけていた。タクトくんが着ていたものと、まったく同じ。ちょっと、張り裂けそうになってるけど。
尾に引きずられ、牙と爪が迫ってくる。
「うわあああぁん」
「泣かないでよ……」
泣くよ! こんな森の中に得体の知れない生物と……森の中⁉ テントは? キャンプ場は?
「ここどこ⁉ ぶっ」
ゾッとする爪の生えた手で背中を掴まれ、胸板に押し当てられる。
ぼふっ。
ふわもこの胸毛に顔が埋まる。
「……」
お、おぅふ……。
「おぅふ」
「落ち着いたかな?」
狼の頭が見下ろしてくる。タクトくんよりずっと大きい身体。でも、タクトくんの声で。
「タクトくん、は?」
「ここにるよ」
切り株に腰掛け、膝の上に座らされる。ふわっとした毛の下に、分厚い筋肉を尻で感じた。
「お、おおう、おおおおお狼? 男、だったの?」
「……ベリちゃんは気づいていると思ってたけど、その様子じゃ、知らなかったっぽいね」
気づいてるって何よ。狼男なんて、ファンタジーの生き物でしょうが。
「……」
幻覚だったはずの尾が、ふわんと揺れている。
頭が追い付かない。
肩を掴むと、長い舌でべろりと頬を舐められる。
「――ッギャア! 何っ⁉」
「何って。味見」
「やめっ」
向き合う形にされると、赤ずきんちゃんを丸呑みできそうな大きな口が開かれる。
真っ赤な口内に並んだ白い牙。
漏らすかと思ったが、食い千切られたわけではなかった。
「んぐ」
「力抜いて」
何をされているのか、しばらく理解できなかった。
口を限界まで開かされ、口内を圧迫感が襲う。
「はがっ? んご……」
ぐちゅぐちゅと、ナニかが口内を犯していく。それが彼の舌だと判明したのはいつだったか。太い舌で口の中がいっぱいになる。
「んふ、んん」
苦しくて、きつくまぶたを閉じる。
やめて。
これ以上、喉の奥に、進まないで。
拳を握って振り上げるが、それを叩きつける勇気はなかった。
「っ、んぐ!」
口蓋垂(喉チンコ)を舐められ、ビクンと肩が跳ねる。それと同時に吐き気も込み上げたが、口の中が埋まっているため吐き出すこともできない。
(や、やだ)
震える指で肩を掴むが、長い毛に埋まるだけ。彼の「味」が口いっぱいに広がる。
舌、こんな……。これ以上、口開かな……。
「あ、あふっ」
やっと舌が引き抜かれた。後ろに倒れかけたが肉球装備の手が、支えてくれる。
「ふふっ。やっぱり外での食事は美味しいね」
「……」
言い返す気力も無く、よだれを垂らしたまま震える俺を見下ろす。
「可愛い。もう抵抗しないの?」
「……っ」
怖い。寒い。怖い。
せめて膝から降りようとするが、手を腹に添えられただけで動けなくなる。
「やめて……」
「そんな泣きそうな顔しないで。虐めたくなるなぁ、もう」
生温かい舌が、首筋を舐める。
「タク、タクトくん。ひぐっ。う、うぅ」
「あ。ああ。ごめんって。冗談だよ」
ボロボロ泣き出した俺に、狼の顔に優しい笑みを浮かべる。俺の顔ほどもある手が器用に涙を拭っていく。
「なんで泣いてるの? 俺が本当に、ベリちゃんを虐めると思っちゃった?」
「ぐい、ごろされるのがど、おぼっだ……」
ピクピクと狼耳が揺れる。無言で自身の爪を見つめ、ため息ひとつ。
「ベリちゃんを傷つけるわけないじゃん」
知らないんだよこっちは! そんなこと! 「赤ずきん」と「狼と三匹の子豚」を履修してきなさいよ。俺も読んだことないけど。狼って、怖いんだからね。
「ばがぁ……」
「あー。まあ、そうだよね。どう見ても肉食だし。びっくりしたよね。ごめん」
頭を撫でてくれる。ぷにぷにしたものが当たるけど、これって肉球?
思う存分ふかふかにすがりつく。獣のような体温に、心が落ち着いてくる。
「かわ……」
「……」
タクトくんが禁止ワードを言いかけ、口を閉ざしたのを感じた。
誤魔化すようにぽんぽんと、背中を叩いてくれる。
「外で、食べると美味しいとか言うから。てっきり、ずびっ、俺もう死ぬんだと……」
「え? ああ。あれね。あれは『性的な意味で』だよ」
転げ落ちる勢いで逃げたが、即行で追いつかれた。風のようだった。
片手で、落ちた人形を拾い上げるように持ち上げられる。靴が、落ち葉の地面から離れた時はうわっと思った。
「ひいっ! 何も安心できない」
「なんで殺されると思っちゃったかな? 俺、ベリちゃんに怒ったことないでしょ?」
「それは……」
持ち上げられたまま向き合う形にされ、ニイッと灰がかった青い瞳が嗤う。
「観念しなよ。俺に優しくしたせいだよ。不慣れな、人間の中に混じって暮らす俺に、ベリちゃんクッソ優しかったでしょ? 俺、嬉しかったんだ」
巨体が森の中を歩いているのに、草を踏む音ひとつしない。どんどん、森の奥に進んでしまっている。それを、止めることも逃げることもできずにいる。
「人? なんで、人の中で、暮らしてたの?」
「あー。社会勉強的なやつだよ。人間のことを知りなさいって。成人したらオスは放り込まれるんだ。マザーに」
引っ越してきたのが高校の時だから。あの時にはもう、(狼男は)成人していたのか。
「狼女もいるの?」
「まーね。メスは、外見はほぼほぼ狼で、二足歩行はできない。怒ると、怖いけどね」
タクトくんの声音は、母親を怖がる普通の男子のそれだった。
「狼男って、そんな。普通に人間に混じってるものなの?」
「……」
目が細められる。雄々しさの中に妖しさを称えた笑みだが、俺の言葉を肯定していた。
「そう、なんだ、ね」
「うん」
「……どこ、向かってるの?」
質問ばかりで恐縮だが、タクトくんの歩みが止まらないのが悪い。大きな段差も滑る岩の上も、透明度の高い小川も、ひょいひょい跳んで行ってしまう。
俺は大事そうに片手で抱えてもらっているので、乗ってきた車より快適。
(片手にすっぽり収まってしまう……)
人間とは違う生き物なんだと、思い知らされる。
「タクトくん。無視しないで」
我ながら情けないとは思うが、声が震える。
泣きそうな顔だったのか、タクトくんは足を止めてくれた。
「あ。ごめん。他のオスに取られないようにって、気を配ってたから。なに?」
ほ、他のオスって……。
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