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2.アフターファイブの戸隠さん①
職場から自宅までは電車で二駅ほどの距離になる。
田舎で二駅というと大変な距離になるが、都会だと朝にランニングやウォーキングしているような人なら、ちょっとした運動のついでに歩ける距離ではある。
その間にいわゆる繁華街がある。ゲーセン、飲み屋、ホテルに風俗……まあ、なんでもありだ。そのなんでもの中にBar Lemonはある。
立地としては裏寂れた路地の片隅で、周りは似たような小さい飲食店。街灯の少ない薄暗い場所が、インターネットのお手軽な口コミに誘われるようなひやかしの客を選り好みする。
しかし自分の感性と好奇心に従って一歩店内に足を踏み入れると、そこには洗練されたダークウッドと間接照明で作り上げられた大人のための秘密めいた社交場があった。
「連絡先とか、知らないの?」
いつものカウンター席に座っていると、マスターのかっちゃんがポークカツレツとビールを俺にサーブして尋ねた。
その声は少々苛立っている。ここへ来たらずっと俺が戸隠さんの事を話すからだ。大体は聞き流してくれるのだが、今日はあまりにも嬉しいハプニングがあったので、自慢せずにはいられず、それがどうにもマスターにはメンドクサイようだった。
だから彼は俺が黙るしかない事を聞いてきたのだ。俺は敢えてどや顔で答えた。
「社内メールアドレスなら知ってるよ」
「それ使ってデートのお誘いしたらまずいでしょ」
「マズいねえ」
隣に座った馴染みの客が合の手を入れる。
そんなことをしたら本社は本社でも戸隠さんじゃなくて人事が出てくるような話になってしまう。
テーブル席から料理の注文が入って、マスターは俺の話どころではなくなる。この店は知る人ぞ知る隠れ家的名店、と言われる料理が旨いゲイバーなのだ。マスターは年々忙しくなっているせいで、俺の青臭い恋愛話を聞いている余裕も、自分の恋愛を楽しんでいる余裕もなくしていた。
代わりに隣に座っていたオネエサンが尋ねた。
「電話番号とかは?」
「社内用の携帯電話は知ってるよ。経理は下四桁の頭が2で、:営業(俺)は4」
「だから何なのよ」
オネエサンから野太い声が出る。手術をしたとは聞いたことがない。まだオニイサンらしい。
「それ使うのはまずいやつ?」
「監視アプリ付き。何年か前に4月に入社して6月に辞めた奴が、貸与されてんのにそれを中古屋に売るなんてことしたから」
「まずいねえ」
話が聞こえていた馴染み客全員が苦笑いをした。普通に考えたらありえない事だが、最近は珍しいこともないのが恐ろしい。
俺はトマト風味の酸味がきいたソースと共にカツレツを食べ、ビールで流し込む。
「揚げ物とビールの組み合わせ、最高」
「若いわねえ。いくつだっけ?」
「今年の4月で33になった」
「その戸隠さんっていくつ?」
「48って聞いてる」
「本人から?」
「うん。でもね、めっちゃ……こう、甘やかしたくなるタイプのね、傾城顔といいますか、未亡人風情と言いますかね」
「美人なんでしょ」
「それ飽きるほど聞いた。耳タコ」
「それなのに750cc 乗ってるんだって」
「通勤に?」
「まさか。スーツ姿で乗ってたらそれはそれで惚れるけどね。休みの日とか。一人でツーリングに行くって」
「それも本人から?」
「うん」
「そこまで情報を手に入れてるのに、どうして連絡先聞いてないかな」
「一緒に行きましょう、とかっていつもだったら流れるように連絡先きいてるじゃん」
「だって俺、バイクの免許持ってないし」
「車の免許持ってんでしょ?」
「君ら年金世代の時はどうか知らないけどね、今は車の免許にバイクはおまけでついてこないの」
「Loopでついて行ったら?」
「750にか? 死ぬわ!」
「引っ張ってもらいなさいよ」
「道交法違反で死なばもろとも~」
そんな軽口をたたき合う中で、俺は楽しい食事を続けた。
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