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2.アフターファイブの戸隠さん③
「このお店をよく知ってたんなら連れて行ってくれたらよかったのに~」
カウンターの端っこにマスターが用意してくれた席で隣り合って座った俺に、戸隠さんは女子高生のような口振りで言った。言葉の内容ほど気を悪くした様子はなく、俺はホッとしていた。
戸隠さんがここへ至ったのはネットのグルメ記事でここの噂を聞いたからだ。料理が自慢のbarだと。
「僕、趣味が食べ歩きなんだよ~」
ツーリングへ行っても必ずその行った先々で評判の店だとか、感じのいい店には立ち寄るのだという。
「甘いものも好き〜」
「それはよかった」
スペシャルパフェを食べながら、戸隠さんはご満悦だった。それを出してくれたマスターは軽くウインクして、こちらに興味津々の常連客の相手に向かった。
俺は二杯目のビールに口をつける。
「酒は、飲まないんですか?」
「飲むけど、寝酒にワイン一杯くらいかな。あまり強くなくって」
だから何度も気になっていながら、なかなかこの店に足を踏み入れることができなかったらしい。
「野々上君、いろんなお店知ってそうだから、連絡先交換してよ」
「あ、はい。ぜひ、よろしくお願いします」
私物のスマートフォンを取り出して、互いにQRコードを提示する。思いがけず連絡先をゲットしてしまった。
「ここ、利用頻度高いの?」
「夕飯とかで結構」
「じゃあまた一緒に来ようよ」
「いいですけど、ほら、ここ……でしょ?」
「ゲイバーってこと? だから教えてくれなかったの? 気にしなくていいのに。僕だってそうだし」
「あ……」
ビンゴだった。これで一歩前進した。
「……そう、だったんだ」
「なんだ、気がついてたのかと思ってたのに。僕はすぐにわかったよ」
「え? ほんとに?」
どきっとした。
「なんとなくそうかな、って感じだけど」
「どういうところで?」
「僕がこっちに来るようになった初日から、君の見てくる目が、もう………………強すぎてさぁ」
柄の長いスプーンを咥えて戸隠さんがちらっと見る。その目がとても扇情的で、俺はドキドキしてしまった。
戸隠さんは俺が入社する前、うちの営業所にいたのだが本社の経理主任になって異動したと先輩から聞いた。
その後任として営業所の経理になったのは彼よりも少し年下の女性事務員だった。彼女は俺も見たことがある。
ところがこの女性が中途採用で入ってきた係長と不倫関係になり、小口現金と銀行振込を駆使して交際費を横領していたのが一昨年の決算時に発覚。そこから戸隠さんは本社経理監査として定期巡回監督をすることになった。
その頃、俺は前の彼氏を78という老衰で亡くしていて、フリーだった。その別れは決して綺麗なものではなく、大変悲劇的なものであったし、何よりオケ専ではあるが実際に死に水をとるという別れも初めてだった。そのショックから年上はおろか、もう誰とも付き合わないと思っていた。
そんな時だった。
「だから今日は、君が6階への階段を上ってるのが見えたからついて行った」
「ゴムもって? 何、するつもりだったの? 俺を、抱くつもりだった? それとも、抱かれるつもりだった?」
「スキンは大人の嗜みです。年齢相応に僕だって性欲はあるんでね。特にゲイなら、セイフティセックスは常識じゃない? でも目的は別になかったんだ、実は。単純に君への興味があって、あとをつけた」
「俺に?」
「だって君、僕がどれだけ無視しても、全然へこたれないんだもん。そのくせスマートに誘っても来ないしさぁ。なんかおもしろくなってきて」
「ああ……」
俺はちびり、とビールを口にする。
戸隠さんを見た瞬間、俺の股間に雷が落ちた。一目惚れというならそうだろう。ものすごくタイプだったのだ。それからは今もほぼ毎日ズリネタになるほどに。
ただ俺は前の経験から実際に誰かと付き合うことに臆病になっていた。
だから戸隠さんのことが気になっているのは確かだけれども、高嶺の花で満足していたのだ。
「でもあのトイレに入っていくじゃない? 君がどっちなのかとか、どんな風にシてるのか興味があったから、後をつけた。そしたら僕の名前が切なそうに聞こえてきてさ」
「勃った?」
「年齢的にもうそこまで強くは反応しないけどね。久しぶりにゾクゾクはした。この人は、僕のことを抱きたいくせに、それを必死に隠してるつもりなんだろうな、って」
「だから誘ったの?」
「隠してる部分を暴くの、好きなんだよね。どんな顔でイッちゃうのか、見てみたかった」
「お気に召しました?」
「んふふ。野々上君、バリタチだよね?」
「正解。戸隠さんは?」
「どっちに見える?」
「わかんない。でもネコであってほしいな、とは思う」
「んふふ」
戸隠さんはかわいく笑って誤魔化すだけで、はっきりとは言わない。でも年齢的に勃たないっていうなら、ネコになっちゃいなよ、とは心の中で思う。そしたらぐずぐずに理性を溶かして、メスイキを教えてあげるのに。
「後ろは、処女?」
こそっと耳打ちしてみる。戸隠さんからはいい匂いがした。柔らかそうな耳朶が美味しそうだ。
彼は相変わらずミステリアスに笑うだけだった。
「どうかな。試してみたら、わかるんじゃない?」
「試させてくれるの?」
「そういう関係じゃないでしょ、僕ら……まだ」
俺はそれとなくカウンターの上に手を這わせ、そっと戸隠さんの綺麗な手に重ねる。
今付き合ってる人はいるのか。
それを尋ねようとして、ふと、彼の指に視線を落として軽く弄ぶ。そのとき、薬指に指輪の痕を見つけてしまった。結構くっきり残っている。よりにもよって左だ。
「……結婚、してたんですか?」
「ああ、これ?」
するっと俺の手からすり抜けて、戸隠さんはスーツのジャケットのポケットを探る。出てきたのはプラチナゴールドの結婚指輪だ。それは彼の滑らかで長い指にするりと収まった。
「ま、いろいろあるじゃない?」
「妻子はいないって聞いてました」
「誰から?」
「会社のお局さん」
「ああ、あの人ね。彼女は例の横領事件の後から入ってきた人だから、僕のことは何も知らないよ」
「結婚してるのに、彼氏でもない俺とああいうことしたの?」
「それはそれ、これはこれ、じゃない? 愛がなくても、気持ちのいいことは好きでしょ? ……嫌いになった?」
戸隠さんは指輪のはまった左手を、芸能人がよく「私たち結婚しました」って金屏風をバックにした記者会見でやるようなポーズで見せつける。
「愛人になるっていうなら、後ろの処女を確かめるチャンスもあるかもよ」
挑戦的な微笑みだった。
伴侶がいるのに社会的成功と個人的な性的欲求は別と考えている男の顔だ。
一般的には非難を受けそうなゲスい自分の一面を見せつけて、相手への絵踏みにしている。これまでもそうやって一緒に地獄へ落ちる覚悟のある人だけをこの人は選んできたんだろう。
未亡人風情のノンケおじさんかと思ってたら、とんだ傾城顔のメスおじさんだったわけだ。
でもその程度で引き下がる俺じゃない。オケ専舐めんな。こっちは既婚カードを見せてくる奴しか相手をしたことはないのだ。
「いいね」
俺はにやりと笑って戸隠さんの細い顎を掴む。噛みつくようにキスをしてやった。ねっとり深く唇を交わして、がっつり舌を忍ばせて奥までこってり愛撫してやる。
ちゅぱっと音がするほど吸い付いて離れる。思考が完全に停止した戸隠さんの眼鏡のフレームが斜めにずれていた。
「愛人上等ですよ。火遊びしたいなら、火傷しないように気をつけてくださいね」
俺はニヤニヤして戸隠さんを見下ろした。
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