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2.アフターファイブの戸隠さん④
「愛人には……なってくれないんだ」
終電を前にして二人で店を出て、すぐに戸隠さんが俺に尋ねる。振り向いた俺の前で、戸隠さんはつまらなそうだった。
熱烈なチューの後の愛人宣言は、わっとその場を盛り上がらせたが、俺はすぐに、
――――なんてね。
と言って、酒に酔ったふりの冗談ということにしてその場を火消した。
戸隠さんが尋ねる。
「なんで?」
「好きだから」
俺のストレートな告白に、彼は黙った。
本当は自分で言った売り言葉に戸隠さんが少し後悔しているように見えたから。
愛人契約なんて本気で口にするような人は、そんな顔をしない。最終的には金であとくされないようにすることを是としてるから、そこまで罪悪感が表には出ない。
仕事ではガンぎまりのくせに、自分の事になるとやっぱりなんか抜けてる。それがまたかわいい。
でもそのうかつな可愛さにつけいろうとは思っていない。狡猾な恋の駆け引きも楽しいけど、見返りもゲームも俺は戸隠さんに求めてない。
俺は冗談めかして返した。
「愛人って気持ちがなくてもお金がいるでしょ? そうじゃなくて、俺は戸隠さんが好き。だから側にいたい。それだけ。戸隠さんは? 俺のこと好き? それとも気になっただけ?」
「どうだろ」
また曖昧に、ミステリアスに笑う。性格的な癖なのか、それとも意図的にやってる手なのか。判断しかねるけれども無意識に相手を試してしまう臆病な感じもかわいい。
「とりあえず友達から、始めません?」
「友達でああいうこと、しないんじゃない?」
口元に綺麗な指を添えて、綺麗な唇を笑いの形に薄くする。
ああいうこと、ね……。
俺はにやりと笑ってから戸隠さんの唇を掬うように、彼よりも少し低い位置から軽く唇を盗んだ。
離れて見た彼の顔は、こってりとディープキスをされた後と同じ。店の中でされたキスを思い出したのかもしれない。
あの時、はっきりと彼の体は熱く反応していた。テンション高く広がった4番目のボタンのボタンホールを今にもはじけさせそうなほど、たわわな胸をびくびくと震わせていた。顔も真っ赤にしてる。鳩が豆鉄砲を食らった顔、ってのはこういうのを言うんだろう。かわいかった。
「気持ちのいいことが好きなんですよ、俺も。セフレだって友達でしょ?」
一瞬だけ、戸隠さんの顔が曇った。
どうやらセクシャルな関係までは、今は求めていないらしい。
俺はにこっと笑って誤魔化した。
「冗談ですよ。楽しけりゃ、なんでもいいじゃないですか」
「野々上君は本音が見えない人だね」
「嫌いになった?」
「どうだろ」
戸隠さんはまた曖昧に笑う。
あざとい。
こういうあざとさが苦手で去っていく人もいるだろうし、逆にどっぷりハマる人もいる。どちらにしろ彼が曖昧だからこそ、受け取り手が同じ態度でいることが許されないところはある。
「付き合っていけば、俺の本音を確かめるチャンスもあるかもですよ」
あえて挑発的に俺は言ってみせた。
戸隠さんはぽかんとして2,3回目を瞬かせてから、ふっと破顔した。
「その言い方」
くすくすと笑いだすととまらなくなってずっと口元を抑えて笑っていた。
嗚呼、戸隠さん……かわいいなあ。
焦るつもりはない。つもりはないけれども、触れたい気持ちは正直強い。
その気持ちが俺の左手を戸隠さんへと導く。そこで腕時計の文字盤が見えて現実へ引き戻された。
そんなことを言っている場合ではない。
俺はもう一度しっかり時計を確認する。酔いがまわって気持ち悪くなる恐れがあるが、かなり急がないと終電が去って行ってしまう時間になっていた。給料日前でタクシーもきつい。かといってさすがにアルコールが結構入っている状態で、ここから家まで歩いて帰ろうとは思えなかった。
「やばい、急がないと!」
俺は戸隠さんの手を取って、慌ててその場から駅の方へ向かって走っていった。
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