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3.電車通勤で戸隠さん①
6時丁度にベッドのサイドテーブルの上で、Smart Watchが充電器にぶら下がったまま鈴の音を響かせて小さく震える。俺は布団の中からごそりと頭を出すと、時計を手に取り、軽く画面を叩いてストップをかけた。
のろのろとベッドから降りてバスルームに向かい、熱いシャワーを頭からかぶる。肌がほんのり赤みを帯びる程の熱さと水量にもかかわらず、大欠伸が出た。
このところ出張というほど遠方ではないのだが、出社して現場を複数回って帰りは直帰みたいな生活が続いていた。
疲れてるのかもしれない。とは思うのだが、シャワーに洗われる我がムスコは相変わらず朝から元気だ。ひとしきり可愛がってやってから浴室を出た。
朝食に限らず皿が必要な食事は基本的に家では取らない。洗い物が邪魔くさいから。
髪を乾かして、スーツに着替えて、時計を嵌めたら忘れ物チェックして家を出る。
朝食は道すがらのコンビニでチョコレート味のプロテインバーとコーヒーを買う。駅中のゴミ箱に殻を捨てたら、いつもの時間にいつもの電車がやってくる。
少々混み気味。座る場所は当然ない。所詮は二駅の事だと我慢する。
また大欠伸が出る。
周りを見渡せばスーツスーツスーツ……。皆じっと黙って似たような顔付をしていた。
その中で、隣の駅では開かない側の出入り口近くに立ってぼんやりと外を眺める戸隠さんを俺は見つけた。
彼は足元にリュック型のオフィスバックを置いて、他よりもワンランク高い位置にある吊皮につかまる。Barでみせてくれた指輪が彼の細くて白い指の間で外光を弾いていた。
眠そう、といえばそうだが、朝から虚ろ気 な顔つきだ。それがなんとも言えない色気を感じさせる。俺は少々人ごみをかき分けて彼の前に進んだ。
「戸隠さん」
俺が声をかけると戸隠さんは吊革につかまったまま、ふにゃっとした顔つきを見せ、可愛らしい眠そうな感じの舌足らずな猫なで声で答えてくれた。
「おはよう」
「おはようございます。この電車にいつも乗ってるんですか?」
「ううん。いつもならこの込み具合が苦手で、もう少し早いのに乗ってるんだけど、今日は寝坊しちゃって」
たはは、笑う戸隠さんの柔らかい髪には今日も寝癖がついている。
愛人の鉄則として二人だけの時は家族の事を口にしない、という暗黙のルールがある。俺はフケ専通り越してオケ専の玄人ですから、そのくらいは常識。
でもそれがわかっている一方で戸隠さんについては家族が彼の身だしなみに気づいてやらないものだろうか、とは思った。
「野々上君はいつも?」
「そうですね。これより前だと空いてるけど早く着きすぎるんで」
「僕もそうなんだけど、本社の近くに7時からやってるcafeあるじゃない?」
「あ、もしかしてベーグルの美味い店?」
「そうそう。やっぱり知ってたんだ」
「営業の本社会議の時に見かけて、気になってたんですよね。でも本社だと営業所からさらに三駅ほど過ぎるじゃないですか。朝からそれだけのために行って出社のために戻ってってのもめんどくさくて」
「僕、本社になってからあそこで朝食食べてから出勤するの。今日は食べそびれたけど、チーズクリームとクランベリーのやつが好きなんだよね」
戸隠さんが嬉しそうに笑う。いいなあ、と返しながら俺の頭の中ではやはり、家族との朝食は? という疑問は浮かんだ。
――――ま、いろいろあるじゃない?
そう言ってLemonで指輪を見せてくれた戸隠さんを思い出す。この界隈、いろいろある。確かに。
年をとると急に『青春したい病』の出てくる男は多い。若さを仕事へ全振りしてしまった人たちで、特に。
年を取っていろいろと余裕が出てきたころに、その隙間を失われた恋のドキドキや、子供ができてしまってからは妻とできなかった性のムラムラで埋めようとする。
でももう若い女の子はよっぽど金とセンスを持ち合わせていないと付き合ってくれないし、なにより薬がないと勃たないなんてのも珍しくない。
だから若くて抱いてくれる友達のような男娼 を選ぶ。俺が相手にしてきたのは概ねそういう人たちだ。
ただ彼らは基本的に家族を放棄しない。
家族を放棄するような素地がある人を俺が本能的に避けているからかもしれないが、愛人と家族をこれはこれ、それはそれとしっかりカテゴライズした上で遊んでいる。二人きりの時に家族について口にはしないが彼の会話の端々や身だしなみのここそこに家族の痕跡を感じることができる。
戸隠さんにはそれがない。
寝癖だとか、はじけたボタンだとか、週末の一人ツーリングだとか、気ままな食べ歩きは独身貴族であるというならままあること。
しかしそれが妻子、またはパートナーでもいいのだが、なんらか家族がいるという前提となると彼はあまりにも放置され過ぎに思えた。
今だって、ネクタイが曲がってる。
「戸隠さん、ちょっとそのまま」
俺は戸隠さんに吊皮を持たせたまま、彼の襟元に手を伸ばす。軽く解いてから、形を整えて、綺麗に結いなおしてあげた。
スモールチップをブレイドのループに通して、両手でまっすぐに下げる。その時、やはり彼のたわわな胸元と、テンション高めで今にも外れてしまいそうな4番目のシャツボタンに目がいく。
「あれ、もしかして、また?」
飛んでしまっているか、と暗にボタンの行方について戸隠さんが尋ねる。
飛んでいない。
飛んでいないが、飛ばしてやりたい。
そんな悪戯心がむくむくと頭をもたげる。
次の駅が近づく。
だんだん減速していくためにブレーキをかける車体の揺れを利用して、俺は指先をボタンに軽くひっかけた。
ぷつん、とボタンが外れる。
と、同時に、車体が強く揺れて急停車する。
車内はバランスを崩した人の塊があちこちで押し合いへし合い、俺と戸隠さんを結果的に密着させた。
とっさに戸隠さんの身体を支えた指先が、先ほど外れたシャツの隙間に触れた。
「やっぱりシャツ……着ないんですね」
アクシデントにざわつく中で、戸隠さんの耳元へこそっと俺は囁いた。ちらっと見ると、戸隠さんの白い顔が赤く火照っていた。
車内アナウンスが駅でのアクシデントをやかましく告げる。皆の注目はそちらに集まっていて、接触したまま離れない俺たちの事なんて誰も気にしない。
戸隠さんからは本能的な嗜虐心をそそる良い匂いがした。
俺は戸隠さんの反応を確かめながら、肌に触れた指先をつつ、っと滑らせる。手を放せばいいのに、戸隠さんは吊皮を持ったまま。切なく熱い吐息を押し殺して、俺の好きにさせていた。
「……ぁ……っん……」
ごくごく小さな声が形の良い唇から俺の耳元へ零れる。
かわいい。
可愛すぎて俺のムスコが大ハッスル。朝からひとしきり水遊びをしてやったというのに、もう復活。
再び電車が動き出す。
俺はいきり立つ股間からできるだけ意識を外して何気ない様子を装い、そっと戸隠さんから離れた。
「人身事故じゃなくてよかったですね」
吊皮を持った戸隠さんはようやく手を放し、それとなく胸元をガードして恨みがましく俺を見た。
「……いじわる……」
かすれたような芯のない声はほとんど周りに聞こえない。唇だけがはっきりと俺にだけ抗議を訴える。うん、かわいい。
「今日、うちの営業所の今月の監査予定でしたよね? お昼、一緒にどうですか?」
「お昼だけ?」
「期待しても?」
「無理。お仕事ができなくなるでしょぉ」
「では本当にお昼だけ。営業所の近くに穴場の町中華があるんですよね。朝ごはん食べそびれてるんなら、がっつり行けるでしょ?」
「わかった。今日は昼から監査に入ろうかな。経理の人には内緒にしてて」
「了解」
電車は緩やかなカーブを曲がって次の駅へとまた減速していく。
ではあとで、と挨拶を交わし、俺はいつもの駅で降りた。
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