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3.電車通勤で戸隠さん②

 最近の外回り分の報告書や電話で受けた案件を一通りメールで各方面に手配する。  すっかり固くなった肩を伸ばしてみれば時刻は11時になっていた。  デスク右手の鍵がかかった引き出しが小さくほんの少しの間揺れる。個人のスマホにメールが入ったのだ。  業務中に私物のスマホを見るのは基本やってはいけない。一昔前なら鍵付きの引き出しの中へ入れて、その鍵を上役が預かるなんて事をしてたらしい。  しかし中には配偶者や子供を抱えて急な連絡を受け取らなくてはならない者もいる。さすがに育児と仕事を折半するのが当たりまえのこのご時世で現実的ではないという話が出て、とりあえず「業務中に使うのは原則禁止だが、鍵はかけないので各自節度を持って利用するように」というお達しが出るだけとなっていた。  左手のSmart Watchには戸隠さんからのメッセージが表示されている。 『言ってた町中華のお店ってどこ? もし並ばないとだめなら先に行って並んどくよ』  どうやら午前中の巡回が早く終わったらしい。  俺は引き出しから個人用のスマホを取り出して、地図ソフトのスナップショットを送って場所を教える。メッセージはつけない。そういうのは業務時間外の作業だ。 『了解~』  白い熊がひょうきんな顔をして手を振っている。かわいい。  12時丁度のチャイムで俺はすっくと立ち上がる。椅子にかけていたジャケットを羽織って、鍵付きの引き出しから取り出した私物のスマホと財布を尻ポケットにねじ込んだ。  いそいそと事務所を出て行こうとする俺に隣の同僚が声をかけてくる。 「野々上、飯一緒に行かない?」 「ごめん。今日は先約有るんだわ」  挨拶もそこそこに俺は足取り軽く目的地を目指した。  地図で戸隠さんに教えていた町中華は味が美味いことはもちろん量が多いことでも有名だった。  昔は営業所の人間もたくさん来ていたが、某テレビで放送されてから割と並ばなくてはならなくなり、昼休憩の時間がタイトなサラリーマン達の足はより営業所に近い回転の速いそば屋かテイクアウトの店へ遠のいていた。  今日も軽く列ができている。  その中頃くらいに個人用のスマホを見ている戸隠さんが立っている。身長がすらっと高い紳士だからよく目立った。  俺が近づいていくとすぐ気が付いてそっと手を振ってくれる。後ろに並ぶ人たちの恨みがまし気な視線をはねのけて、俺は戸隠さんと合流した。 「悪い人だ。フライング昼休みじゃないっすか」 「野々上君はまさか外回りで社内時間にきっちり合わせて動いてたりするの?」 「するわけない」 「でしょ。僕も外回りの時はそのあたりは大目に見てもらってるの」 「わかってますよ。順番取り助かりました。いっつも並ぶことだけに時間が過ぎて、食べるのが大慌てになるんで」 「だと思った。美味しいところは仕方ないよね」  戸隠さんはうちへ来る前に近隣営業所を2,3箇所回ってきたという。近隣といっても一番遠いところで営業車使って片道40分かかるところもあるので結構な移動距離だ。車は先にうちの営業所駐車場へ停めてから、回れ右でここへ来たらしい。 「今日はうちで最後?」 「あと一件あるかな。そっちの方が本命」 「おや、なんか妖しい動きが?」 「内緒。どこで誰が聞いてるかわからないしね」  戸隠さんの髪と同じ色素の薄い長いまつげの影が揺れて片目がゆるやかに閉じる。まっすぐ伸びた細くしなやかな人差し指がうっすらと悪戯な笑みの浮かぶ口元に添えられて緘口を強いた。  俺は思わず生唾を呑む。まじか、この48歳。色気ありすぎるだろ。  それを腹が減っているものと勘違いしたのか「お腹空いたよね~」と戸隠さんは笑った。  店内のテーブル席はほぼ満席で、注文の声と中華鍋の音が交差し、湯気が天井にまとわりつく。  案内されたのは調理場の真正面になるカウンターで、店主は額に汗をにじませながら、鍋を振る手を止めない。もちろん半袖で頭にはタオルを巻いている。  俺は戸隠さんの右側に座る。それまでジャケットを羽織っていたが二人ともそれを脱いで、ハイチェアの背もたれにかけた。 「さぁて、どれにしようかな」 「俺はもうチャーシューラーメン、とライス大にレバニラと餃子って決まってるんで」 「レバニラいいなあ。でも今日は朝ごはん抑えたし、がっつりいきたいんだよねぇ。……よし決まった」 「じゃ、すみませーん。注文お願いします」  数分後、俺の前にはチャーシュー麺とライスとレバニラと餃子、戸隠さんの前には俺のチャーシュー麺よりも一回り大きな器に入った酸辣湯と半天津チャーハンとから揚げがあった。  唐揚げは一個が小学生低学年の子供の拳ほどある。それが3つ。普通の48歳では健康診断という年一のラスボスを前に臆する量だった。 「食べきれます?」 「たぶんいける~。グルメマップで前評判調べたら、結構量が多くて安いって聞いてたから、間食もお茶だけにしてたんだよね。そしたらもう午前中お腹がすきすぎて痛くなってきてさぁ。いただきまーす」  白い長そでのワイシャツを腕まくりし、緩めたネクタイの端を左の胸ポケットに突っ込んで戸隠さんは酸辣湯に挑みかかる。少し長めの前髪を耳にかけながら、外見とは対照的に下品で豪快なほどずるずると音をたてて麺を一気に啜る。艶やかな唇が揺れ、白い頬がほんのり紅く染まる。 「熱……でも、美味ひぃ」  食欲と熱気が混ざり合って呟く声は甘く掠れる。  こんな時に食事とセックスの傾向は似ている、なんてどっかのSNSで拾った言説を思い出して、俺はきゅっと股の間に力を込める。営業所の例のトイレで戸隠さんがゴムをつけてくれた時のことを思い出してしまった。 「ごちそうさま。はぁ~……満足」  数分後、戸隠さんは汗ばむグラスを手に取って、口の中の油を冷たい水で一気に拭い去る。彼の前の皿は気持ちいいほどきれいさっぱりになくなっていた。  一方で俺のラーメンは汁が残り、最後一個の餃子がどうしても口の中へ入っていかない。  それを見て、戸隠さんは小首をかしげた。 「無理そう? 貰っていい?」 「どうぞ」  俺は苦笑いして、すっと皿を戸隠さんのほうへ少し移動させた。  戸隠さんは餃子をひょいっとつまんで、タレもつけずに食べてしまう。大食い選手権とか出たことあるのかな、と疑ってしまった。 「めちゃ食べますよね」 「野々上君だって食べるじゃない」 「前来た時はこれ全部食べれたんですよ。でも最近は忙しくてジムに行けてなかったから、前程腹が減ってないんですよね。戸隠さんは健康診断の数値とか気になりません? 年齢的に」 「別にぃ。僕は定期的にジムに行ってるし」 「いい体……してますよね」  俺は左側に座る戸隠さんの今朝方電車の中で悪戯した胸元へ目が行ってしまう。  4番目のボタンはまた弾けていた。もしかしたら朝からはじけっぱなしだったのかもしれない。  その隙間からたわわな雄っぱいの凹凸と、ちらっとだけ慎ましやかな形のいい乳首が見えた。  もうそれだけでいろいろとおなかいっぱい。撃沈。御馳走様です。昼一のトイレ休憩のネタは決まった。  そんな俺の視線に気が付いた戸隠さんの視線がすっと横滑りし、ほんの一瞬だけ止まる。その目は俺の下心を咎めながらも、悪戯っぽくすべてを見透かして笑っていた。 「見すぎ……ぇっち」  最後の甘い叱責が店内の喧騒に溶けて、油で艶めく唇だけが投げキッスのように動く。叫びだしたいくらい可愛いかった。これを思い出すだけで今週は生きていける気がする。  ただ今日はまだ終わりではない。午後から俺も戸隠さんも仕事なのだ。頭を切り替えないと。  俺は冷たい水を一気飲みしてゆで上がった頭を冷やして立ち上がる。ちゃっちゃと会計を済ませて店を出た。  時計を見る。今から歩いて営業所へ戻れば丁度午後勤務10分前くらいになった。 「ジム、どこへ行ってるんですか?」  営業所まで並んで歩きながら、俺は戸隠さんに尋ねた。 「Lemonの近く」 「だから夕食食べられる場所探してたんですか?」 「そう」 「シャワー付き?」 「うん。家に帰ってから入るのが邪魔くさくて」  だからLemonで耳元から項にかけていい匂いがしたのか。  俺はその時の匂いを思い出しそうになる。しかし匂いは記憶を引っ張ってくる。はっきり思い出したら本気で歩けなくなりそうだったので、スーツに染みついた中華料理店の油とニンニクの匂いに意識を向けた。 「野々上君はどこのジム?」 「テレビでよくCMやってる例のところですよ。洗濯機があるとこで、週末に」 「洗濯機ないの?」 「あるんですけど、乾燥機ついてないんですよね。干すのが邪魔くさくて、そのままカピカピになることもあるんで、ついでに」 「仕事帰りは?」 「その時はこの近所で。ただそこってシャワーがないから汗臭くなるんですよね。電車の中で気を遣うんで、歩いて帰ったり」  俺はそれとなくジャケットの胸元をはたはたと扇ぐ。さっきの中華屋でも少々汗をかいてしまった。 「ふうん」  戸隠さんは何か考えた様子でどこかを見ていたが、にこっと年齢不相応に可愛らしい笑顔を俺に向けた。 「ね、僕が通ってるジムに、一緒に行かない?」 「え?」 「毎週金曜日は必ず、あとは時間があったら行ってるんだけど、よくない?」 「え、高いんじゃないですか?」 「そんなことないよ。まあ、君が今通ってるところよりは1000円ほど高いかもしれないけど、その差額に見合うだけはあると思う」  戸隠さんが教えてくれたジムの名前を俺も知っていた。割安、とは言わないが、その分結果はキチンと出ると評判のところだ。俺みたいになんちゃってジムではなくて、本気で筋トレや肉体改造を趣味にしている人が通っている。  戸隠さん曰く、安い支払しかしていないから行かなくてもまあいいか、となって無駄金をはたくことになるのは多いので、本格的にやるつもりがあるなら財政的に少し気になる程度の支払いはするべきだ、とのことだった。   ただ本格的にやりたいか、というと実は別にそういうわけでもなかったりする。俺がジムに通っていたのは28歳くらいまでは彼氏がいて弛んだ体を見せられなかったのと、30を過ぎたら急に健康診断の結果に不摂生の隠しようのない事実が数値として表れ始めたからにすぎない。自己研鑽というストイックな話ではないのだ。  どうしようかな、と悩んでいると、戸隠さんが耳元に顔を寄せて囁いた。 「ジムデート、できるけど?」  淫靡なお誘いのような声色で耳を嬲る。  火照った顔でばっと戸隠さんを見ると、彼はにやにやと綺麗で意地悪な笑みを見せていた。 「僕のこと、好きなんでしょ? 週一で必ず会えるし、その後はLemonで楽しくお食事デートなんてのはどう?」  そしてゆくゆくはホテルで軽くご休憩、なんて展開もありうるのだろうか。  そんな事を期待させるような小悪魔めいた微笑みで戸隠さんは俺を見る。断るなんて選択肢を与えるつもりはないらしい雰囲気で。  もちろん、俺の口からもYES以外の返事が出てくるはずもなかった。

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